『「読む」って、どんなこと?』
高橋源一郎著
NHK出版から出ている「学びのきほん」シリーズ。2時間程度で、学問の基礎を学べるシリーズ(だと思っている)。
こちらがKindle Unlimitedで読めるということで(感謝感激雨嵐)、今年は毎月一冊ペースで読んでいけたらいいなあ、と思っています。しかし繁忙期になるとそうも言っていられないだろうか…。
作家の高橋源一郎さんによる「読む」ことについての講義。
ひとつの基準として「学校」が出てくる。
学校の教科書(どちらの出典かはわからないが)に書かれている「読み方」、
すなわち、その学年ごとに身に付けるべき「読む力」が小学1~6年生まで、冒頭に書かれている。
なるほど、文章ってそういう風に読むのか、感心感心。
と、最初は思っていたのだけれど、読むにつれて、そういう話ではなさそうだとわかる。
数作品、既成の文章を紹介しつつ、これは学校では読む文章だろうか?読める文章だろうか?
読むべき文章なのじゃないだろうか?じゃあ、なぜ読ませられないのだろうか?と。
この本は、「読む」ことが主題のようでいて、高橋さんの「社会」に対する批判的な考えも強く感じる。
本来ならば、多様に読み方をとらえていいはずの文章、「個人」のものであるはずの文章、
そこにこそ文章を読む面白み、醍醐味があるはずなのに、それは学校では扱えない。
高橋さんの思ういい文章というのは
たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。
と書いている。
例えば、戦争で人を殺すようになった主人公の話を引用して、なぜこれは教科書で取り上げられないのかを問う。
(主人公の胸の内で)囁く「声」は、わたしたちの内側に食いこんで、ひそかに出現のときを待っている、「社会」が送り込んでいた「ウィルス」のようなものではないかと思っています。
と高橋さんは言う。
ここで冒頭の小学校教科書に載っている「読み方」に戻る。
この中には暗に「みんな」、「わたしたち」という、個人個人ではなく「集団」として読む力を身に付けなさいと言われているのではないかと疑っているのです。
学校は、「社会」のことばを教える、いやもっと露骨にいうなら、「植えつける」場所であり、その「社会」が、その奥に、どんなことばを隠し持っているかを見つけることは、ひどく困難です。
わたしには、学校批判は安易にできないけれど、
個人的にはもっともっと、いろんな文章に出会いたい、読んでいきたい、と思うものです。
読むことは面白い、という理解者だって、いっぱいいっぱい、ほしい。