市原豊太『言霊の幸ふ国(神社新報ブックス2)』(神社新報社 1985年)読了。
神道や神社のことを知るには、神社新報社の本を読むのがいいかなと思い、手軽に読める神社新報ブックスシリーズを読んでいるが、本書はその第2弾である。
著者の市原豊太氏は仏文学者であり、本書はその市原氏の日本文化論・国語論という性格のものである。
さて、本書は第1編と第2編で構成されており、第1編は日本文化私観、第2編は国語の愛護とタイトルがついている。
ここでは、それぞれの編で特に感じたことを若干述べることにしたい。
まず第1編から。
少し長いが引用する。
「戦後三四年の頃だつたか、私は或る有名な進歩的文化人(法律学者)を交へての鼎談会に出たことがある。その時たまたま話が天皇制の問題になつた。彼は公式通り、天皇家崇拝は明治政府の強制的教育の結果である、と言つた。そんなことはない、と私は言つて、近松の芝居を持出した。すると進歩的先生は、そんな筈はない、といふ。「それでは貴君は近松を読んでゐますか」と私が訊ねたら、彼は「読んでゐないがそんなことはあり得ない」と頑張つた。私は呆れた。自己の信念に忠実なのは宜しい、しかしその信念が盲目的で、はつきりした事実を知らず又は無視してゐては、実証を旨とする近代的学者とは言へないではないか。かういう学者や文化人が今も幅を利かせてゐるのは日本の大きな不幸である。」(p25)
ここに出てくる法律学者の進歩的文化人が何者なのかも少し気になるところだが、それよりも、「自己の信念に忠実」だが「その信念が盲目的」で、「はつきりした事実を知らず又は無視」している人間が幅を利かせているというのは、本書の出版から35年を経た今でも変わっていないのではないか。
きちんと学問をして、事実に基づいたことを話している人間の主張が極めて通りづらく、事実を知らなかったり意図的に無視している人間の主張が通りやすいというのは、つまり「正論が通らない世の中」ということもできるだろう。
「正論が通る世の中」にしていくためにどうするか、ということを考え、少しずつ実現できるように行動しなければならない。
続いて第2編。
こちらは全編にわたり現代仮名遣いや漢字使用の制限を痛烈に批判し、旧仮名遣いの復活や常用漢字表・人名漢字表の撤廃を提唱している。
ここで「確かにその影響はあるのではないか」と思ったのは、青少年の学力の低下、というところである。
韓国でも、原則ハングルを使用し、漢字を使用しなくなった結果、語彙の貧困が著しく進んだり、本が読めなくなってしまったりということが起こっていると聞いたことがあるが、それを想起せずにはいられなかった。
また、自分でもよく思うのだが、旧仮名遣いや旧字体で書かれた漢字が多い文章が、実に読みにくい。仮名遣いはまだ読めるのでいいのだが漢字の旧字体はいちいち調べないと読めなかったりすることがままある。
そういったことを考えると、やはり文字というものは一部の人間だけが読めればいいというものではなく、国民全員がきちんと読み書きできなければならないものなのだと思う。
それが、国民全体の知的レベルの維持・向上に重要であることは勿論、自国の文化や伝統を維持していくのにも極めて重要なものではなかろうか。
旧仮名遣いの復活や常用漢字表・人名漢字表の是非については、建前ではそうだが、事実上は旧仮名遣いの書籍もあるし、個々人で使用している人もいることだし、漢字についても普通に常用漢字に指定されている漢字以外も日常的に使用され続けているので、実質的にはそれほど問題にはならないように思わなくもない。
しかしながら、旧仮名遣いの使用や、漢字制限の撤廃など、上でも述べたように教育や文化といった視点からは行うことが望ましいと思う。
とはいうものの、現実的にはさほど困っている人もいないということならば、これを推進するのは少しハードルが高いのか…。
なかなかに悩ましい問題である。
いずれにしても重要なことは、現状をきちんと分析し、いかに「正論が通る世の中」を作っていくか、そして、その前提として国民全体の知的水準を高めることである。
さらに、国民の知的水準を高めるという点で大事になるのが、自国の文字をきちんと読み書きできること、ということだ。
ということで、他人事のような書きぶりであったが、他人の心配をしている場合ではない。色々な文献や史資料を読めるように小生自身の国語力ももっと鍛えていかなければ…