山内進『決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景』 | 倉山塾東北支部ブログ

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山内進『決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景』読了。

決闘裁判とは、文字通り原告と被告でどちらが「正しい」かを決闘で決するもの。
神判(例えば熱湯の中に手を入れさせ、火傷の程度を見て判定、など)とは異なる。

言わば「当事者主義」であり、勝った方が正しい。この決闘裁判の当事者主義は、アメリカの裁判のあり方と酷似している。

ところで、この本を読んで興味深かったのは、キリスト教が既に定着している中世ヨーロッパで、なぜ決闘裁判が広く行われていたのか、というところ。
ローマカトリックの頂点たる歴代のローマ教皇が「汝は主である神を試してはならない」(マルコによる福音書四・7)というところでも示されているように、決闘裁判は「神の法」に反するので、これを禁止する、としており、神聖ローマ皇帝や諸国の国王なども決闘裁判を禁止している(言っているだけ)のだが、実際には行われていた。
決闘裁判の慣習というのは、キリスト教以前から根づいていたものであり、さしものキリスト教の最高権威や世俗の権力者と言えども、これを完全に廃止するのは至難の業であったようだ(最終的にヨーロッパから決闘裁判がなくなるのは16世紀後半)。

古くからの慣習の力というのは、それが良いものであれ悪いものであれ侮れないものがあるのだと改めて思った。
決闘裁判の話とは少しずれるが、古くからの慣習というところで感じたのは、その地で長く続いてきた慣習・伝統というのは、その地に住む人々にずっと受け継がれてきたいわば歴史・常識なのであり、これはある国の憲法を考える上では知っておく必要のあるところなのだろう、ということだ。

少し長くなったが、そんなことを考えさせられた一冊だった。