私はいわゆるオタクである。
幼少より父からはロボットアニメをしこたま見せられ、
叔母の部屋に散乱していたBL本をふと読んでしまったことにより、
世間の持つ一般性への戸口は硬い扉を持ってして閉じられた。
クラスメートがスポーツや鬼ごっこ的健全な遊びに汗水流す傍ら、私は屋内で本を読みふけり、アニメを視聴し、ゲームに没頭する。
やがてケータイの普及に伴うインターネットとの接触により、私の青春時代は仄暗い電子の世界へと霧散していった。
そして、オタク的インターネットに蔓延るのが、
恋愛非推奨の風潮である。
そこでは恋愛シュミレーションゲームをするのが良しとされ、3次元の恋愛は忌むべきものとされていた。
いつしか私はシュミレーションにシュミレーションを重ね、一向に本番を迎えぬままシュミレーションのプロとなっていった。
さながら壁打ちの得意なテニス未経験者である。
そして同時に3次元の恋愛を憎んでいくことになる。
手を繋いで仲睦まじく歩くカップルを見つけては、その繋がった手の間を自転車で駆け抜けたい衝動に襲われ
駅前での別れ際のキスを目撃しようものなら、なるべく悲惨な別れ方をしろと呪いをかけるようになった。
公共の面前でなんたる愚行、まったく品性に欠ける。下品極まりない。
粘膜の交換による雑菌がもとでくたばればよい。
そんなことを思い続けたからだろうか。
数年たっていざ自分に恋仲の人が出来てみると、大変苦労した。
手を繋ぐのが難しい。
これは断じて恥ずかしいだとか勇気が足りないだとか、
そんな小心者めいた理由ではない。
ようは、過去の自分の罵詈雑言が釘を刺すのだ。
ひと目もはばからず手を繋ぐとは何事か、貴様に日本人としての慎みはないのか、
貴様が手を繋ぐということは貴様だけの恥ではなく、その大切な相手の恥である。
大切な人を辱めてまでする事か。
手を繋ぐというのは並んで歩くということである。
お前のような生産性のないブサイクが1人分のスペースを使っているだけでもおこがましいというのに、
もう一人分も道を占有する気か、
どこまで厚顔無恥になれば気が済むのだ、社会の粗大ゴミめ。
そう思うと、公共の場で手を繋ぐという行為が
とてもはばかられた。
手も繋げぬのだからその先はお察しの通りである。
恋愛に遠く憧れはするものの、
それに足る人格の獲得を自ら進んで拒否した。
もはや手遅れであろう。
あの明るい世界は私にとっては生きづらいのだ。
ロウで固めた翼を得ても、太陽に近づくにつれ羽が溶けて墜落してしまうイカロスのように
オタクもまた恋愛に近付いてしまうと溶けて消えてしまうのである。
我々は液晶に阻まれているのではなく、
守られているのだと知った。
生物の本能に従い恋に興じてみようにも、
人間ゆえに獲得した理性が要らん邪魔をする。
何故このような事態になってしまったのか。
心を液晶で包み込んでしまった我々には、もはやそこから出る手立てはないのである。
試しに1歩でてみようと試みてみるも、それを凌駕する力で引き戻されてしまう。
オタクに恋は難しいとあるが、
難しいどころの騒ぎでは無い。
こんなに難しいのならもはや私のすべきことではない。
天才とは99%努力であるとあるが、1%の才能がないと天才たりえないのである。
恋愛の才能1%がないオタクは99%もの無駄な努力をせず、
黙って金を稼いで推しに貢ぐが吉なのだ。
恋に悩むオタク諸君へ私が金言をさずけよう
オタクが恋にうつつを抜かすな