突然であるが、私は大変多趣味である。
休日ともなればTRPGという超マイナーゲームに勤しんだかと思えば、
友人とキャンプに出かけ燻製作りにはげみ、
ロードバイクで意味もなく河川敷を行ったり来たりしたのち、
重たい機材を引きずりながら写真撮影をする。
これにあと釣りとゴルフが加われば、いよいよ完璧なおじさんである。
しかして、今回は写真についての話である。
写真といっても人によってそれぞれの専門があり、
またそれに合わせた機材が存在する。
風景、対物、海洋、山岳、車両、電車、飛行機…
挙げればキリがない。
そのほとんどは分化されており、技術体系や技法は実に様々である。
私は中でも人物撮影。
ポートレートとコスプレ撮影を主としている。
誤解のないように言っておくと、私はコスプレイベントに参加して
露出度の高いレイヤーをローアングルで撮影するようなことは1度もしていない。
プライドと自意識が高いので誓ってしていない!!
脂と欲でネチョネチョになった撮影など断固としてしていない!!!
友人や知り合いのレイヤーに付き添い、
スタジオ等で撮影をする専門である。
かれこれ4年ほどカメラをやっているらしい。
昨年はコロナでほとんど撮影をしていなかったので、
実際の活動期間でいえば2年ほどになるかもしれないが…
そんな中で、ひとつ気がついた事がある。
写真写りについてだ。
撮影する側に技術がないと言ってしまえばそれまでであるが、
しかしそれを抜きにしても写真写りは存在する。
と、言うことに最近気がついた。
同じ撮影方法を用いても、実物と比べて写りが良い悪いがどうしても存在する。
シャッターを切った後に、写真を確認した時に、
肉眼の方がカッコよく、可愛く見えていたのにと小首を傾げることが多分にある。
何故なのか…。
私にとってはしばらく謎であった。
人によって撮影方法を変えてるわけではない。
誰だって持てる技術を100%発揮しているつもりだし、
また、同じ人を撮っていても日によって異なる結果が出ることがある。
この差はなんなのか。。。
真相を確かめるべくジャングルの奥地にでも向かいたいのだが、
あいにく渡航が制限されているので、自宅で頭を悩ませた。
その結果、ある法則性に気がついたのだ。
それが自信である。
例えば、私の友人であり過剰に自信が全身の毛穴から溢れ出している、
もじゃもじゃナルシストはいつカメラを向けてもいい写真が撮れる。
お世辞にもイケメンとは言いがたく、身長も私とほぼ変わらない。
しかし何故だか写真で見ると大変「映えている」のである。
もしくは彼は「なり切っている」のかもしれない。
様々な雑誌媒体に映るモデルに、
CDジャケットを撮るアーティストに、
四方からカメラを向けられる女優俳優に。
だからこそ表情やポーズの四肢指先に至るまで、
「映える」のかもしれない。
そう思える事象はほかにもあった。
私が褒めると写真が良くなるのである。
実に不思議な現象なのであるが、
私がファインダーの向こうから声援を送れば送るほど、
写真が良くなっていくのだ。
無論私も最初からそんな打算があったわけではない。
素直にそう思ったから伝えただけなのである。
しかしそれらは結果として、ありありと写真の出来栄えに作用する。
ここから導き出される答えというのは、
1つにはカメラマンは被写体を褒める人を選ぶべきだということだ。
世辞でも社交辞令でもおためごかしでも、
とかく相手を褒めるカメラマンはそれだけで信頼に値するということだ。
あいにくとして私は、良いと思えなければ褒められない。
かっこいいと思わなければそう言わないし、
多少なりとも自分の感性というか感情が動かなければ、言葉は出てこない。
いわゆるダメなカメラマンである。
面白くもないのに笑えるかという昭和の頑固親父のようなマインドで生きる私は、
しかしどうしてカメラマンとして適正であるとは言えないのである。
一方で、被写体に焦点を当ててみれば、
ナルシストほど写真が映える。
もちろん、人は誰しも、多少なりともナルティシズムを持っているものである。
私に関してもネガティブを理屈と屁理屈で煮込んで鍋底に沈殿したヘドロのような性格をしているが、
多少なりは自分の好きな部分というものがある。
そして、こと写真撮影に関してはこのナルティシズムが大変に重要になる。
いわば、ここがナルティシズムの使い所だ。
自己肯定感がどうのと呟かれる昨今ではあるが、
こと写真撮影に関しては、存分に自分を大好きになっていただきたい。
写真を撮られているという受動的な感覚ではなく、
撮らせているという能動的な感覚に変えるのである。
たとえ向井理や橋本環奈の方がビジュアルに優れていようとも、
シャッターを切られるその瞬間だけは、
あなたが世界でいちばんの美男美女であると錯覚するのだ。
見よ、この視線。この表情。このポージング。
毛先から指先に至るまで、自分以上に美しいものは、他になし。
そう思うことで、写真としての完成度が跳ね上がるのである。
伏し目がちで硬い表情をしていては、
撮れる写真も撮れないのである。
目線を上げ、表情筋の1つ1つを柔らかく、意のままに操るのだ。
さすれば、今まで以上の写真が撮れることだろう。
以上、ご参考になりますればこれ幸いである。