はじめに、本稿はその主題の狙いである話とは別に、

大変お腹が空いてしまう危険性を含んでいるものである。

減量中のボクサーないし体重を気にされる乙女、

もしくは歯磨き後の深夜の閲覧は推奨されない。

また、筆者こと私は、皆様の貴重なご意見を、

一切受け付けない性格なので、ご承知置きの上ご覧いただいたい。

 

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本日もオタクとインスタグラマーの紛争が絶えない。

 

インスタグラマーは珍しい料理や美味しそうな料理を写真に収めシェアし

オタクは飯が冷める早く食えと火の手を上げる。

 

立ち入り禁止の場所にインスタグラマーが立ち寄ったかと思えば

匿名希望のオタク警察が取り締まりを行う。

 

インターネット黎明期から脈々と続くネット戦国。

未だ終戦の報せは遠い。

 

しかして今回は、表題にもある通り

飯を食う前に写真を撮ることについての是非について、

私なりの見解を述べたい。

 

いつもの如く、私のようなものが世間様に意見を申し、

それを受け入れて頂いたり、
これこそが正しさであると宣うつもりもない。

 

誰に聞いて欲しいでも無いが、なんとなく自分の心に溜まった言葉を、

今日もネットの海に廃棄するだけである。

 

結論からいうと、

私は大変よくご飯前に写真を撮る。

 

堪え性の無い性格なので、

目の前のご飯について我慢ができなければ、

写真のことは忘れて食し、

空の食器を目の前に若干の後悔を抱くばかりであるが、

基本的には写真を撮る。

 

 

はるばる友人と静岡まで行って食べたハンバーグであるとか

 

 

友人の誕生日で訪れたチーズ専門店のラクレットであるとか

 

 

職場の昼休憩に食べたカレーステーキランチであるとか

 

 

エノキの天ぷらを頼んだらうどんから自生してきたかのようなうどんセットであるとか

 

とかく飯の写真を撮る。

理由としては、記録であると同時に、

幸福の貯蓄である。

 

人間は、特に日本人はマイナス思考の人間が多く、

悪いこと、嫌だったことほど覚えている傾向があるらしい。

 

一説には、アフリカ大陸から始まった人類が、

いくつかの部族に分かれた際に、

一番強かったアフリカ人の祖先はその場に止まり占領し、

我ら日本人の祖先たる部族は、

戦いに負け続けこんな辺境の島国まで逃げ果せたのだとか。

 

それゆえに「勝ち」から学んだアフリカ部族とは違い

「負け」や「失敗」から学び生き残った日本人の祖先の傾向が、

遺伝子に刻み込まれているらしい。

 

それが真実かどうかは判然としないが、

やはり傾向として嫌なことほど覚えてしまうのは我ら日本人の悪癖と言える。


おっとここで「いや、俺は違うけどね」なんてセリフは御遠慮願いたい。

私はあくまで傾向や統計の話をしているのであって、

個人単位の話をしている訳では無い。

いいかみんな、自分の話がしたければ、

ブログを書くかキャバクラにいけ。


さて、この悪癖をどう補うかという話であるが…

そこでこその写真である。


写真は芸術であったり表現方法の一つであると同時に、

外部記憶媒体、ひいては自らの記憶を呼び戻すための、

Zipファイルの解凍ソフト、とでも表現しようか。

 

食事の写真を撮るというのは、

美味しそうなご飯を記録に残すだけではない。

 

その時一緒にいた友人や家族、

そこでの会話、その時流れていた音楽、

そこに到るまでの経緯やその日の出来事、

全てを鮮明に思い出すための鍵たりうるのだ。

 

もちろん中にはなんで撮ったのか、

いつ食べたのか、どこの店のご飯だったか

思い出せない写真もあるが、

それもまた写真を撮る上での一興である。

 

写真をSNSにアップロードし、

皆に共有するというのも良いことである。

100人が見れば、だいたい10人は食べて見たいと思い、

そのうちの1人は実際に行く。

そうすることで経済は循環し国も豊かになる。

 

それを非生産的かつ非消費的な部外者が止めるどおりはどこにもない。

 

本日はこれくらいで終了してゆく。

皆様におかれましては、

食事の際に写真を撮る友人を咎める前に、

一度、本当にその苦言が必要か考える時間を設けることも

視野に入れていただけますと幸いである。

 

もしくは、自ら試しに食事を撮影してみて、

いつの日かその写真群を見返し、

思い出に浸るのもいいだろう。

きっといつかのあなたの役に立ってくれるはずである。

 

それでは、飯テロしながらさよなら。