命日 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 フェイスブックに「思い出」という機能がある。過去の同じ日付の日に投稿した記事や写真を振り返ることのできる機能だが、今朝この「思い出」を閲覧して、今日が在日朝鮮人の元従軍慰安婦・宋神道さんの命日だと思い出した。

 

 第2次世界大戦中、日本軍将兵の性の相手をさせられた従軍慰安婦のことがメディアで取り上げられた1992年、宮城県女川町に住む宋さんも当時の日本政府の責任を問うため賠償請求訴訟を政府に対して起こした。当時仙台の学生だった私は、知人が宋さんの支援団体で活動していたことがきっかけで何度か宋さんの支援集会に出席した。

 

 私が宋さんに対して持った印象は「威勢のいい婆さん」だった。集会の最中でも集会主催者側と行き違いがあるとカッとなって怒ったりしたのだが、その一方で支援者の男子学生たちのことを

「お前らせがれみたいだよ。」

と泣いてセーターの裾で涙をぬぐったりしていた。

 

 宋さんは10代で結婚するはずだった。だが、婚礼のあと、夫との性生活に怖気づいて婚家を逃げ出し、実家にも帰れずに困っていたところに、

「お国のためになる仕事がある。」

と言われて、その斡旋人に付いて行って連れていかれたところが中国の戦地で、それからは兵士の性の相手をさせられた、というわけだ。

 

 戦争が終わると、また宋さんは行き場をなくした。ある元兵士が、結婚しようというので、彼について行って、それで宋さんは日本へ来た。だが、結婚しようというのはうそだった。夫婦連れを装えば帰国しやすい、と元兵士は考えて宋さんをだましたのだ。一度は死のうとしたのだが、親切な朝鮮人に女川の飯場での仕事を世話してくれて、それで宋さんは生涯の大半をこの漁港の町で暮らすこととなった。

 

 宋さんは兵士の子を宿したことあった。ある時はおろして、あるときは生んで現地の人に託した。だから中国残留孤児が日本の親を探して来日すると、宋さんはその映像を食い入るようにして観たという。

 

 2011年3月11日の東日本大震災で、宋さんも被災者となった。避難所に身を寄せていた宋さんは支援者に迎えられて東京に移り住み、その6年後に老人ホームで息を引き取った。

 現在宋さんの遺骨は韓国の墓地で眠っている。宋さんの墓の隣には女川での仕事を紹介してくれた人の墓がある。二人は内縁の夫婦だったそうだ。

 

 従軍慰安婦の問題を何度かアメブロで取り上げているが、私のブログを読んでいる友人が酒の席で

「慰安婦こと取り上げるのやめてくれない?もっと日本の立場を主張して。」

と言われたことがある。話は平行線。カネを置いてさっさと帰ろうかと思うくらいに腹が立った。

 日本の立場…なんて薄っぺらな言葉か。ウイグル人を弾圧する「中国の立場」、パレスチナ人を弾圧する「イスラエルの立場」を想像すれば「~の立場」なんてくだらない話だと思う。戦争で人生を台無しにされる人の立場に国も民族も関係ない、と宋さんの命日に思う。

 

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 下の写真は2020年に東京都立川市で宋さんの闘いを振り返る写真展が開催された時に宋さんの写真パネルの横で写したもの。ハグしようとする宋ばあさんから私が逃げているようで笑える。