客車と文学~『蜜柑』、『銀河鉄道の夜』 | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 少女が蜜柑を投げる光景はどんなものだったのか?ふと気になって大正時代の鉄道車両について調べたことがある。少女とは芥川龍之介の短編小説『蜜柑』に登場する娘のことだ。

 

 

 

  私は『蜜柑』を小学生の時に読んだし、高校の国語の授業でも読んだ。すぐに読める作品なのでぜひ上でシェアした作品を読んでいただきたい。

 作者自身と思われる人物「私」が汽車の車内で少女に遭遇する。最初「私」は少女を嫌悪しているのだが、列車が踏切を通過するとき自分を見送りに来た子供たちに少がが蜜柑を投げるのを見るとその嫌悪感は消える、そんな話だ。

 この小説を芥川は1919年(大正8年)に発表した。当時芥川は神奈川県の横須賀にあった海軍機関学校で英語を教えており、その通勤の際に遭遇した出来事を小説にしたのだろう。現在も横須賀線の列車にはグリーン車が連結されているが、当時の横須賀線の列車にも海軍エリートのため現在のグリーン車に相当する二等車が連結されていた。「私」は二等の切符を買って二等車に乗り込み、静かに帰宅しようとしている。芥川は35歳で自死しているが、いかにもそんな作家らしいくらい心情の描写が続く。娘が持っているのは現在の普通車に相当する三等車の切符。何も知らない少女が誤って二等車に乗り込み、「私」の日常を壊す。当時の横須賀線は蒸気機関車で運行されていたから、トンネル内で窓を開ければ煙が入る。

 だが、トンネルを抜けた時娘が投げた蜜柑の色はどんなに鮮やかだったか!

 

(これは現在の横須賀線横須賀駅近くの車窓風景。弟たちが姉を見送ったのはこういう場所か。)

 そこで娘が蜜柑を投げた情景を想像してみた。「私」が乗っていた客車はどんな様子だったのか?

 これはさいたま市にある鉄道博物館で保存公開されているオハ31型客車の内部だ。木製のクロスシート(ボックス席)が並んでいる。かつて昔の汽車の車内風景として多くの人が思い浮かべるのはこんな風景だろう。だが、この客車は昭和年間に入った1927年から製造が始まった車両だ。それに、これは三等車であり、「私」と娘が乗っていたのは二等車だ。それでは、二人が遭遇したのはどんな車両か?

 

 

  そう思って検索を続けていると鉄道ファン向けのネット掲示板の記事を見つけた。上でシェアしたサイトに2008年 6月26日(木)14時06分11秒付で投稿された記事によると、内田百閒の随筆『非常汽笛』に当時の横須賀線二等車にはロングシートの車両が使われていた旨の記載があるという。内田百閒は芥川と同じく夏目漱石門下の作家であり、芥川と同じ時期に海軍機関学校に勤務していた。彼は戦後に『阿房列車』という紀行文を出す位の鉄道好きであり、彼の鉄道に関する情報は信頼できる。(追記:『非常汽笛』はちくま文庫の『内田百閒集成2』に収録されている。内田は海軍機関学校に勤務していた当時、横須賀線の二等車に乗車中、列車が女性を轢く事故の遭遇するのだが、この時乗車した車両が「窓に沿って座席が伸びている普通の二等車」だったという。)

 

 

 ロングシートとは車体の壁際に配置された文字通り長い座席で、大都市圏の通勤電車で多く採用されている。いや、最近は車窓風景を眺めて旅情を楽しもうと大都市圏を離れた線区の各駅停車に乗ったら座席はクロスシートではなくロングシートだった、ということも多い。そんな座席配置がなぜ二等車にと思う方もいるだろう。

 だが、明治大正の鉄道車両は今の鉄道車両よりも幅が狭い。乗客全員が着席する前提で車両をデザインするならば、クロスシートでは狭くなる、ロングシートならば足を伸ばせて快適、ということになる。

 上の写真は現在の横須賀線普通車車内である。乗降扉は車体の両端に設けられいて、その間の14,5mにわたって長椅子が設けられている。つり革や手すりがない代わりに腰掛はふかふかだ。それが『蜜柑』の出来事が起きた車内だったのか。

 

 

 そういうことを考えているうちに、では『銀河鉄道の夜』の汽車はどんなだっただろうか、と思った。

 『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治が遺した未完の童話だ。宮沢は現在JR釜石線と呼ばれる鉄道路線の宮守橋梁を渡る列車をみてこの童話を書くことを思い立った、という話がよく紹介される。

 宮沢が生きていた当時釜石線は岩手軽便鉄道と呼ばれ、軌間(線路の幅)はJR在来線の1067mmより狭い762mm。上にシェアする動画の冒頭に当時の岩手軽便鉄道の列車の写真が映し出されているが、軽便鉄道の車両は小さく、車社会になれば真っ先に淘汰されるようなものだった。

 この作品をアニメ化して1985年に発表された映画では主人公のジョバンニは親友のカンパネルラや鳥捕り、船で遭難した幼い姉と弟と彼らの家庭教師、といった人々とクロスシートで向かい合って語らっているが、これは宮沢がイメージした情景なのか?

 岩手軽便鉄道の列車を写した写真で、乗客が窓に背を向けて座っているというものを見たことがある。線路の幅が狭く、客車の車体も小さければそこにクロスシートを設置することは空間的に無理だ。宮沢が銀河鉄道のモデルとしたのは岩手軽便鉄道ではなく花巻電鉄(1972年廃止)の列車だ、という研究報告がウィキペディアで紹介されているが、この路線も線路の幅が狭い軽便鉄道だ。

 おそらく、賢治のイメージした銀河鉄道の列車の座席はロングシートだ。

 

 この写真は北海道遠軽町の丸瀬布いこいの森という施設で撮ったものだ。この施設には総延長2km、軌間762mmの軌道が敷かれかつて地元の森林鉄道で使われていた蒸気機関車が春から秋の週末に運転されている。この写真の客車はもともと地元で使われていた客車ではなく、岡山県の井笠鉄道(1972年廃止)という軽便鉄道で使われていたものだが、この客車は岩手軽便鉄道で使われていた客車に近い車内装備のものだろう。

 ロングシートとはいっても、都会の電車と違って向かい合う席同士の距離は近い。こういう空間でジョバンニは亡き人々と語らったのではないか。