地図の上の石川啄木 | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 石川啄木、本名・石川一(はじめ)。人は彼を薄幸の歌人と呼ぶ。確かに彼は貧困に喘ぎ、肺結核を患って満26歳で世を去った。だが、それだけで彼を「理解」すればあの世にいる彼が怒るというものだ。

 

 10代当時の私にとっても、啄木の歌といえば

 

   東海の小島の磯の白砂

   われ泣きぬれて

   蟹とたわむる

 

とか、

 

  ふるさとの訛りなつかし

  停車場の人ごみの中に

  そを聴きにいく

 

といった感傷的な歌だった。だが、大学に入ってから、彼にはこんな歌もあると知った。

 

  地図の上朝鮮国に黒々と 墨をぬりつつ秋風を聞く

 

1910年8月29日に韓国併合が行われ、朝鮮半島は日本の植民地となった。これで日本も欧米列強に肩を並べた、という祝賀ムードがつくられる中で、啄木は地図で日本列島と同じ赤色に塗られた朝鮮半島に墨をぬっていた。そして彼はそこを、併合前の王国ではなく、そこに暮らす人民が自決権を有する場所として朝鮮国と呼んだのだ。

 韓国併合に先立つ5月25日、天皇暗殺を計画したとして4名の社会主義者が逮捕された。彼らの計画自体は稚拙なものだったが、明治政府はこの事件に乗じて事件に関係していない社会主義者、無政府主義者を逮捕、起訴し、翌年1月には幸徳秋水ら12名を処刑した。大逆事件である。

 朝日新聞で校正の職に就いていた啄木は幸徳と同志であった思想家や、被告を弁護した弁護士らに接触するなどしてこの事件を独自に調べ、これが大掛かりな思想弾圧事件だと確信した。そういう時期に詠んだのが「地図の上~」の歌なのである。国や民族に関係なく、人は平等だという考えに行き着いていたのだ。

 

 ところで、私は最近『団結すれば勝つ、と啄木はいう 石川啄木の生涯と思想』(碓田のぼる・著、影書房・刊)という本を読んだ。ここでは啄木がどのようにして思想的に成長したのか、という考察がなされているのだが、最後の章では著者本人の敗戦時の体験が記されている。著者は10代だった敗戦の翌年、北海道の万字炭鉱で臨時の炭鉱夫として働いた。戦時中、そこで働いていた日本人炭鉱夫たちが兵隊に取られたため、強制連行された朝鮮人たちが石炭の採掘をしていたという。炭鉱での仕事をしている間著者が暮らした宿舎の壁には朝鮮人炭鉱夫たちの彫った文字が細かく刻まれていたのだが、ハングルの落書きに混じって、

 

  地図の上朝鮮国に黒々と 墨をぬりつつ秋風を聞く

 

という啄木の歌が刻まれていた。その文字に心打たれた著者は苦学をしたのち教師として働きながら啄木の研究をした。

 

 啄木には糾弾すべき部分もある。

 貧乏暮らしの一方で、啄木が色街に通って買春をしたことは有名な話である。色街で客の相手をする娼婦の多くは家庭の貧困のため過酷な労働を強いられ、自由を奪われ、社会から蔑まれた。そのことを啄木はどう思ったのか。

 色街に通う一方で啄木は妻・節子の貞節を疑い、彼女に対して威圧的に接した。彼は菅野須賀子(大逆事件で幸徳とともに処刑された女性思想家)のような「女傑」でなければ女性を対等な人と認めなかったのか。

 この点においては、啄木は同時代の男性の多くと違わなかった。全ての人は平等だ、という思想を持つ一方で「自分より下の者」には抑圧者として接した彼のことを現代の私たちは反面教師とするべきだ。

 

 さて、敗戦から70余年が経ったが、日本人の国際意識は明治時代と変わらないのではないか。白人に劣等感を持つ一方で、白人以外の外国人や異民族を見下す。友人知人と話をしていて

「だから韓国人は嫌なんだ。」

「なぜ韓国人、朝鮮人は植民地支配を根に持つのか。」

という言葉を聞くことが最近増えてきたように思う。彼らは朝鮮半島に住む人や朝鮮半島にルーツを持つ人たちを、いまだに植民地の住民だと思っている。

 だからこそ、私は「地図の上~」と詠んだ石川啄木に光るものを感じるのだ。