物語と毒薬 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 90年代の話である。ある大学の大学祭で推理クイズの企画があった。会場のなった教室には、どこかの大学の教授室という設定で、オフィス用の机と椅子が置いてある。そして、学生の提出したレポートを読んでいる最中に教授が急死した、ということで机に倒れこんだ教授の身体の形に縄が置いてある。さて、教授はどうやって殺されたのでしょう、というのだ。
 机から少し離れた場所に正解が書いてあった。「ある学生の提出したレポートに毒薬が塗ってあった。教授は指をなめながらそのレポートを読んだために毒を摂取した。」というのだ。
「なんかなあ…。」
と思った。指を舐めて摂取できる毒なんて本当に僅かなものだ。その毒で、すぐに人が死ぬものか。
 なお、この大学は総合大学である。卒業生には化学メーカーや医薬品メーカーのエリートもいれば医師もいる。この企画に関わった学生は今頃、
「あの頃はガキだった。」
と思っているだろうか。
 
 小説や映画の世界では、毒薬は人を殺すのに便利な道具としてよく使われる。そして、名作とされている小説にも便利な道具は登場する。
 

 
 アレクサンドル=デュマ・ペール(大デュマ)が1845年に出版した『王妃マルゴ』にも毒が登場する。
 物語の舞台は1572年のフランス。この当時、日本は戦国時代だが、フランスでは旧来のキリスト教組織に属するカソリックと、宗教改革により興ったカルヴァン派の信徒・ユグノーとの間で争いが絶えない時代だった。そんな中、フランス・ヴァロワ王朝の王女マルゴと、ユグノーの盟主とされるナヴァル王アンリが結婚する。もちろん政略結婚である。パリに集ったユグノーたちは平和の訪れを祝うが、それをカソリック系市民が襲撃し、数日の間に1万人を超えるユグノーが虐殺された。サン・バルテルミの虐殺である。
 
 時のフランス国王はシャルル9世だが、彼も彼の弟も跡継ぎを残さず死に、ナヴァル王アンリが新たに王朝を建ててフランス王となる、という予言をこの物語では母后・カトリーヌ=ド・メディシスはノストラダムスから聞かされていた。そこで彼女はアンリの殺害に躍起となる。
 
 母后は刺客を放って剣による殺害も試みるが、毒物を使った殺害も試みる。毒を調合するルネは、彼女がフィレンツェから連れてきた調香師(#)だ。
 
# カトリーヌ=ド・メディシスはイタリア・フィレンツェの豪商・メディチ家から持参金付きでヴァロア家へと嫁ぎ、アンリ2世の王妃となった。彼女が実家から持ち込んだ食文化がフランス料理の基礎となった、というのは有名な話である。フランス支配層のファッションもフィレンツェの影響を大いに受けたことは容易に想像できる話だ。
 なお、アンリ2世は医師ノストルダムスを侍医に招こうとしたが当人から断られた。2世がそれからまもなく槍試合中の事故で没したことで、ノストルダムスが後世の人間から予言者ともてはやされることとなる。
 
 まず、母后は毒入りの口紅をルネに調製させ、それをアンリの愛人・ソーブ男爵夫人に届けさせようとする。アンリがソーブ夫人と口づけを交わせばその度に毒が彼の身体に溜まり、彼がフランス王になることはなかったはずだが、口紅はソーブ夫人に渡さえることはなかった。
 どのみち、毒入り口紅が愛人の手に渡ったとしても、それが歴史を変えることにはならなかっただろう。口づけで身体に入る毒は微量だ。その毒が政敵の身体を蝕む前に、愛人の唇が醜くただれることになるはずだ。
 
 次に母后は頁に毒を染みこませた本を使って政敵の暗殺を図る。狩猟の本の頁に砒素系の毒を染みこませたものは既にルネが作製していた。それを母后はルネの工房から持ち去って側近に渡し、ナヴァル王の居室のテーブルに置かせる。ナヴァル王は大の狩猟好きだった。そのナヴァル王を狩猟仲間のシャルル9世が訪ねる。シャルル9世はテーブルに置いてある本を見付けると、指を舐めてめくりにくい頁をめくりながらい一気に50頁も読み進む。毒が付着した指を舐めれば不快な味がするはずであり、そのまま王が50頁も本を読み進めるとは思えないのだが…。
 まもなくシャルル9世は内蔵が焼けるような苦痛を覚え、血の汗を流しながら衰弱し、24年の世を終える。王位を継ぐのは弟のアンジュー公アンリ(アンリ3世)だが、母の愛はこの弟に偏っており、毒によるシャルル9世の死はある意味母の希望にかなったものだった。
 
 史実ではこの15年後、過激なカソリック教徒がアンリ3世を暗殺することでヴァロワ王朝は絶え、ナヴァル王アンリがブルボン王朝最初の王・アンリ4世として即位する。そして彼の家系がフランス革命まで続く。
 
 名作『王妃マルゴ』は毒薬の取り扱いについてはおかしな記述がなされている。その他にもこの作品には史実とは異なる記述がいくつもあるそうだ。
 だが、憎悪や不寛容といった、人間誰もが持ちうる感情がいかに醜いものであるかということを、この作品では権力者・カトリーヌ=ド・メディシスの姿を通して描いている。