新城市内の城跡関係のネタが続きます。長くなるので、スルーしてください。

田峯城(設楽町)の菅沼定広の子、定継は新城市内平井地区の大谷城(おおやじょう)に続いて、天文元年(1532)に石田に新城(しんじょう)を築きますが、駿河今川氏から尾張織田氏に鞍替えしたことで、今川方の討伐対象となりました。
奥平氏、菅沼同族間での争いの中で弘治二年(1556)に討死し、弟の定氏が城を守ることになります。定継の墓碑は、移転しましたが、現在平井地区にあります(大谷城主菅沼定綱の墳と記されています)。



今川義元が桶狭間で討死し、子の氏真の代となり、東三河でも諸将の離反が相次ぎ、徳川に寝返った野田城の菅沼氏討伐のため、永禄四年(1561)牛久保の牧野氏等が来襲しました。
城主菅沼定盈は開城し、西郷氏を頼り、逃れます。

牧野氏の与力、稲垣半六郎氏俊(上州伊勢崎藩主稲垣長茂の叔父)が野田城代となりましたが、翌年菅沼氏の奪還のための奇襲に遇い、稲垣氏俊は討死します。

この際か、あるいは前年に、親徳川派となっていた石田の新城(新城古城)を守る菅沼氏も今川方の攻撃を受けました。石田合戦と呼ばれています。

この戦闘で、攻城方の稲垣十郎左衛門らが討死し、今川方は撤退を余儀なくされました。

話が長くなりました🙇
新城古城はわずかに土塁らしき高まりが確認できますが、過去の発掘調査においても、明確な遺構は見つかっていません。
文字が消えかかった標柱を見ることができるだけです😢



攻城の際に討死した稲垣氏縁の塚が城跡の北部の高台に残っています。石田八幡にあるコーポ(変電所の南隣)の一角の小さな土まんじゅうの上にお稲荷さまの祠が祀られており、狐塚とも呼ばれていますが、長い時が流れて、忘れられていくのかも知れません。