1.主観的な考え方の例
Aさんは本屋で立ち読みしている時、ふと、隣に喫茶店があることを思い出した。
本は面白いのだが、ずっと立ったままで脚が疲れて来たし、コーヒーでも飲みながらゆっくりと本を読みたい。
Aさんは、こう考えた。
本を喫茶店に持って行って読んでも後で返すのだから、盗んだことにはならない。本屋的にも、立ち読みされているか、喫茶店で読まれているかの違いで、どちらだって同じことだろう。
Aさんは本を喫茶店に持って行って読むことにし、本を持ったまま本屋を出た。
これが「主観的な考え方」である。
自分の欲求を実行する為にその欲求を正当化する理由を考えるだけで、客観性がない。
主観とは、自分の欲求に基づいて物事を考える立場。一方、客観とは、自分の欲求から離れて考える立場である。
物事を見る視点で言えば、主観とは「自分の視点」、客観とは「自分以外の他の視点」と言える。
2.Aさんの行動の問題点
Aさんが考え、とった行動が世間的に受け入れられないのは明らかであろう。「会計をせずに本を店外へ持ち出したら万引きになる」という常識に反しているからである。
Aさんはそのような常識を知らない、もしくは、思い出すと自分の欲求を実行できなくなるので、見て見ぬフリをしたのである。
次に、Aさんの行動を、本屋の視点から考えてみよう。
黙って本を持って行かれたら、後で返すつもりなのか、万引きなのか区別がつかない。
仮に、持ち出す為に断って来たとしても、許すことはできないだろう。立ち読みは本来、試し読みの為に許容されているものであるし、ゆっくり読むために持ち出すことなど許されない。
「喫茶店でゆっくり読みたいのなら買えよ」という話である。
普通に考えたなら、Aさんと同じことを思いついても、「いやいや、ダメだ」という結論に達して、実行に移すはずがないものである。
しかし、Aさんは自分の欲求を正当化し、実行に移してしまった。何故か。
3.一見、正しく見えるAさんの考え方
Aさんの行為は、Aさんの中では正当化に成功している。
Aさんが根拠としたものを再度見てみよう。
①本を喫茶店に持って行って読んでも後で返すのだから、盗んだことにはならない
②本屋的にも、立ち読みされているか、喫茶店で読まれているかの違いで、どちらだって同じこと
まず、①であるが、こちらは、この部分だけ見れば、論理の上では問題ない。「後で返すのだから、盗んだことにはならない」、確かにその通りである。
続いて、②である。こちらも、この部分だけを見れば、少なくとも大きくは間違ってはいない。立ち読みをしていても、喫茶店に持ち出しても、Aが占有していることには変わりないからである。
ただし、販売の機会を損ねてしまうのだから、問題なくはないが、人気の本ならば複数置いてあるであろうし、そうでなければ、喫茶店に持って行っている間に、その本を買おうとする客が来る確率はそれほど高くはないだろう。
このように、Aさんの考え方は一見正しく見えるものである。だからこそ、Aさんは自分の欲求を実行に移せた。
そして、この「一見正しく見える」のがミソで、Aさんをトンデモ行動に走らせる源、まさに、「主観的な考え方」なのである。
4.主観的なAさんの考え方
Aさんは、「喫茶店に本を持って行って、座ってゆっくりと本を読みたい」という欲求に基づいて考えている。
そして、このような「主観的な考え方」では、大前提として「自分の欲求」があり、それを正当化する為にだけ考える。結果、次のような特徴を持つことになる。
(1).都合の良い根拠の抽出=「隠ぺい」(都合の悪い根拠の)
先にあげた根拠の①で言えば、自分の欲求に都合の良い「後で返すのだから、盗んだことにはならない」という根拠だけをあげ、例えば、「所有者に無断で持ち出して良いか」という命題は考えない。そんなことを考えれば、自分の欲求を満たす妨げになってしまうことになるからだ。
また、②も同様である。もっとよく考えれば、先述したような本屋の立場での考えが出てくるはずであるが、自分の欲求を正当化する為にだけ考えるので出て来ないことになる。
(2).他の視点も主観で歪める=「歪曲」
②では一応、「本屋的にも」と本屋の視点、つまり、「自分以外の他の視点」で考えてはいる。しかし、それは自分の欲求を正当化する為に歪められたものである。
本屋に、「立ち読みされているか、喫茶店で読まれているかの違いで、どちらでも一緒でしょ!」なんて主張しても受け入れられるはずもないのであるが、Aさんの脳内本屋は、Aさんの欲求に都合の良いように考え、行動してくれる存在に歪められているのである。
なお、Aさんの考えの場合は、「隠ぺい」と「歪曲」だけだが、「主観的な考え」では例えば、「そう言えば、この本屋さん、前に『立って読むのも疲れるだろうから、どこか座れる所に持って行って読んでくれて良いですよ』と言っていたわ」と本屋が言ってもしないことをデッチ上げる「ねつ造」が使用される場合もある。
5.疑似客観
このようにAさんの考え方は、はなはだ問題のあるものである。
しかし、論理の上では間違っていない。「返すのだから、盗んだことにはならない」、その通りだと言える。
「立ち読みされているか、喫茶店で読まれているかの違いで、どちらだって同じこと」、こちらも、論理的な不整合があるわけではない。
しかも、一応は、本屋の視点でも考えている。
Aさんの根拠と結論は、主観的に考えた、つまりは、自分の欲求を満たす為に考えただけのものであるが、一見、客観的っぽい。それっぽいだけの「疑似客観」とでも言えるものなのである。
6.「疑似客観」の例
このような「疑似客観」を使って物事を考え、行動する人は、世間でもよく見られるものである。常識外れの行動をとって、他からあっけにとられたり、驚かれる人である。
〇挨拶程度しかしたことのない女性が突然、家に訪ねて来て、「あなた、この前、隣の人の子供預かっていたわよね。今日、私、用事あるから、ウチの子を預かってちょうだい」と言って、無理やり子供を預けて行こうとした。
〇帰宅したら家のガレージに知らない車が止まっていて、自分の車を止められない。近所の人に心当たりがないか聞いて回ったら、大して親しくもない2軒隣りの人が「ああ、今日、急な来客があって路上駐車してもらうわけにも行かないから使わせてもらったわ。大事なお客様なの。もう少し使わせてね」と言われた。
このような人たちはAさんと同じで、自分の行為が正しいと思っているし、他から批判されれば猛烈に反発する。自分の中では、その行為はきちんと正当化された正しいものだからである。
さらに、この「疑似客観」というツールを使えば、トンデモ行動どころか、どんなに道理に反した行為をも正当化できることになる。
〇痴漢・・・「相手も喜んでいるに違いない」
〇窃盗・・・「貧富の格差を小さくする為だ」「タンスに眠っているお金を流通させて、経済の活性化に寄与している」
〇殺人・・・「こんなヤツは死んだ方が社会の為」
まともに考えれば、自己の欲求を実現できない。そんな時、「疑似客観」を使用して、まともに考えるフリをして自己欺瞞をし、自分の欲求・行動を正当化するのである。
7.「疑似客観」を使用する人のタイプ・ケース
人は生まれた時は主観しかない。
赤ちゃんは、「今日、お母さん調子が悪そうだから泣くの我慢しよう」とか「お葬式で皆しんみりしてるから、笑うの我慢しよう」などと考えない。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う。主観しかなく、自分の欲求を一切制御しないからである。
そして、人は成長するにしたがって自分の世界が広がると共に、様々な客観を取り込んで行く。
「こういう場合にこうすれば、こうなる」、「こういう場合には、こうしなければならない」
しかし、どの程度、客観を取り込むかは人それぞれである。
甘やかされて、自分の欲求を制約されることが少なく育った人は、客観の取り込みの程度は低い。
また、大人になるまでに平均程度の客観を取り込んだとしても、権力や財力と言った力を手に入れると自己を肥大化させ、自己の欲求を制御しなくなるケースもある。
そして、双方のケースでは、自己の欲求を正当化する為に、「疑似客観」が使用されることになる。
一方、世間的に「常識的な人」、「バランスのよい人」と言われる人でも、時に「疑似客観」の考え方をする場合がある。
自分の欲求が非常に強い場合である。
例えば、主義や宗教など自分の人格に関わる欲求のケースで、それらが否定されそうになると人は必死になってその否定を否定し返そうとする。
自己のアイデンティティである主義や宗教を否定されれば、自己を、そして、今までの自分の人生をも否定されることになるからである。
そのような場合では往々にして、「疑似客観」を使用して必死になって自分の主義や宗教を正当化し、しがみ続けるけることになる。
以上、「主観的な考え方」、「疑似客観」というものを見て来た。それは自己欺瞞の誤った考え方。誤っている行為を正当化し、つまりは、誤りを犯す為の考え方である。
釈迦曰く、
自己を制御することは、実に難しいものである。自己こそ自己の主である。いかなる生がほかにあろうか。自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。(『法句経』)
人は、この「疑似客観」を使って、自分の欲求を正当化し、「それは正しい行為なんだ」と自分を騙す。そうして、「自分は、自己が制御できている」と自己欺瞞する。
「疑似客観」を使う人は、実際は、自己が自己の主とならずに、自己の欲が主となり、自己の欲に振り回されているだけなのである。
※以下の記事も合わせて読むことをお勧めします。
〇「目の曇りを晴らす為に必要なもの(その1)~(その10)