「つくる」の考察(仮)

「つくる」の考察(仮)

1.つくること・つくったものをみるのが好きな人間が、言葉と格闘しながら何とか作品の魅力を伝えようとするブログ。

2.自身のつくることへの見方を深めるためのブログ。

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演出したい作品がスキャナで読み込めなかったから、

キーボードで全文ぱちぱち打っている。


読むだけで面白いって戯曲に、どう向き合えばいいのか。

向こう側にいきたいなって思う。

想像とか、作品とか、身体とか、ことばとか、存在の向こう側。

あちらにわたる為に、僕はどうしたらいいのか。


この悩みは、漠然としているけど、楽しいから、いい。

『ブリジット・ジョーンズの日記』は、独身の30過ぎの女性が今年中にパートナーを手に入れようと奮闘する物語だ。

その決意を守る為に日記を書き始める。おそらく毎日書いている。

しかし、10kgの減量であるとか、禁酒・禁煙といった決意はほぼ守られていない。

(努力はしている。多少の増減もある。)


日記を書くことで自分と向き合ったり、客観視したり、肯定する、というニュアンスは然程画面にはあらわれてこない。

ストレスの捌け口的日記の使い方だ。


結末を書いてしまうと、ブリジットは物語の冒頭とほとんど変化がない。

パートナーをみつけ、目的は達成されている。

しかしブリジット・ジョーンズの努力は、直接パートナーゲットにはつながっていない。


最終的に手に入れたパートナーは、最初に振り向かせようとした人物ではない。

むしろ物語の大部分で、彼女は彼を嫌っている。


彼が彼女を好きになった理由ははっきりしない。

変わろうとする彼女の努力を認めたわけではなく、

「ありのままの君が好き」というのがなんかモヤモヤする。

「好き」に理由はいらないのは共感できるんだけど、何故かしっくりこない。

ブリジットが彼に対して何にもしてないのに、棚ぼた的に彼とくっついたからかなぁ……?

(当人同士が幸せなら何の問題もないんだけどさ)


決心に関わらず、それがうまくいかないで怠けてしまうことに共感できる。

しかし映画として切り取ってしまうと、タイトルにも使われている「日記」の効果が弱いように感じた。



梅雨です。


雨は嫌いじゃないです。

誕生日に素敵な傘を頂いたので、むしろ雨の中を歩くことが楽しいです。

12本と骨の数が多いせいか、通常のものより布がピンと張られていて、小さな雨粒の音もよくきこえます。

帽子と同様、傘を差すと視界が遮られて落ち着きます。


しかし、漠然と憂鬱な気分になったりもします。

雨で計画が中止になったり、季節の変わり目で体調を崩し、会いたかった人が来れなくなったり、低気圧で頭痛になることに気付いてしまったり。


なんだかやる気も起きません。

やりたいことはたくさんあるのに。


ずっとひとりでこもっていたい気分です。


というのが今の正直なところ。

しかし私はひとりじゃないので、希望に関係なく引っ張り出されます。


一度選んでしまえば、気分が変わろうともシステムは自動で作用する、ということなのでしょう。

毎回選ぶことも面倒だけど、勝手にはたらき掛けられることも面倒です。


というじめじめした考えに付きまとわれるのを、雨季のせいにしておこう。

先日、22才になりました。

この世に生を受けて22年が経ちましたか。

ほう。


正直、19才から20才、20才から21才になった時のような、

「やっちまった」感もなく、心穏やかに22才を迎えました。


たぶん23才になる時も、同じような感じだと思います。

だけど、微々たる進歩は重ねていきたいです。

大学もあと2年もあるけど、2年しかない、ともいえるし。


特に精神面でもっと強くなりたいです。

後輩増えたし。

同期も頑張ってるし。

易々とは揺らがないように。

try&error.


それでは。

イエデイヌ企画という演劇企画を立ち上げて、

旗揚げ公演「サインとか、秘密、とか。 ―『署名人』からの発想―」が

本日幕開けとなりました。


今日のお題は「遊び」と「選挙」。


正直、話していた内容はあんまり覚えていない。


ことばがさらさらと流れていってしまった。


私は彼らを暗い安全なところから眺めていたわけだが、

眺めているときはそれほど自分の中で生成されなかった。

でも、はなすとなったとき、自分の中に「何か」発生した。

また、眺めていたときに発生したものをことばにしようとしたら、

はなす瞬間にどこかに行ってしまった。


どこにいるのか。


本日ご来場してくださった皆様、ありがとうございました。


明日も演劇してきます。

『新座キャンパスで、かもめ。』以来、自分の中で「2年」がキーワードになっていてちょっとおかしい(笑)。


2年前の映像をみた。

そこにいる彼らはあの空間で全力で遊んでいて、とてもうらやましかった。

もちろん、荒さとかは真っ直愚過ぎる気恥ずかしさ、なんていうのもあるけど、本当にいきいきしていた。

11月公演で、ある人に「ずるい」っていわれたけど、私からしてみれば彼らも「ずるい」。


その頃から2年経った彼らと何度か舞台をつくれたことは、本当に幸せだったなあ、と。


ある人が、「大学演劇は楽しんでいる彼らをみに来るところだ」っていっていた。

お客さんを楽しませる為に、全力で遊ぶこと。

それでいいと思う。

遊ぶって可能性をみつけていくことだと思う。


2年後、彼らと同じ立場になったとき、うらやましがられるような立場でいたい。


だから全力疾走したい。

絶対苦しくなるんだけど、終わったときに「よかった」って笑えたら、それでいいや。


私は彼らが大好きだし、その姿勢を下の子達に引き継ぐことが、サークルの在り方かな、と思います。

にれゆり『新座キャンパスで、かもめ。』が終わりました。

稽古日数15日、本番2日。

途中雪で2時間しか稽古出来ないような日もあったから、本当に短い時間だった。

でもものすごく密度が濃くて、1ヶ月以上稽古していたような感覚。

書き出すととまらないので、箇条書きで簡単に残しておきます。


ものすごく寂しい。

とっても幸せ。

役を「背負う」こと。

「マーシャ」の重みに負けたこと。

2年はあっという間

映像身体面白い

新座キャンパスにある学部面白い

新座キャンパスの学部全部で演劇できる

新座キャンパスは、パノプティコン

みることをみられる

ひとりの人間がつくる第四の壁

喫煙所

つくったものを美味しいといって食べてくれる人の存在

存在していた人たちの不在

それに慣れること

揺らぐことば、存在、自己、空間

愛おしさ



寒い中みに来て下さった皆様、
にれゆりメンバーの先輩方、後輩、
そして『新座キャンパスで、かもめ。』を企画したN先輩、
楽しくて面白い幸せな時間と空間をありがとうございました。

いずれもっと突っ込んだ文章を書きたいと思います。
それまでは、語っていきたいです。
いくらでもはなせるので。

訣別について。


『新座キャンパスで、かもめ』という企画に参加しています。


そこで、「訣別」というものが浮かび上がってきました。

先輩がおっしゃるには、
決別……きっぱりと別れること。
訣別……きっぱりと別れることを告げること。

つまり、いうかいわないかってことですね。

いうかいわないか
つまり
はなすかはなさないか

という問題は、日常にごろごろあります。


ということで、「告白」について考えてみましょう。

告白って恋愛においては一般的に
「好きです、付き合って下さい!」
の意です。
「一緒にいたいです」
っていうことです。

しかし、これも訣別だよなあ、と。

今までの関係性にさよならすることですから。
たぶん、告白が苦痛なのは恥ずかしさ云々というより、

この区切りをつけること、終止符を打つことになるからではないでしょうか。


でもね、もうちょっとうまくいかないのかなって思うんです。

過去を全て清算するなんて無理です。不可能です。

好きになった事実は否定できないし、好きだという感情をなくすことはできません。

じゃあもう、そういったずるずるだらだらしたもの全部、受け入れるしかないんです。

ここで忍耐とか寛容さとか余裕とかそういったものが必要になるのだと思います。

たぶん告白でタイミングが重要なのは

付き合ってくれそうな時期にしなさいってことではなく、

相手が受け入れてくれる時期にしなさいってことではないか。

受け入れてくれるっていうのは付き合ってくれるってことじゃなくて、

付き合うにしろ付き合わないにしろ、存在を肯定してくれることをさします。

人と友人関係があるのは、或る意味相手の好意を受け入れているからです。
それが異なるかたちで再提示されるのが告白なのかなあ、と。

だから告白される側も、もっと気楽に構えていいんじゃないですかね。

で、告白する側も、相手のそういった部分もまるっと受け入れましょう。

まあ恋愛には好意以外の性欲や自分の存在に対する自信も絡んでくるから

そう単純にいかないのでしょうけど。
ネガティブな感情に支配されると、なかなか抜け出せないし。
こちらがそういう考えをもっていても、あちらがそうじゃなければ気まずくなるし。
でもそれもまるっと全部ね、受け入れられたらと思います。

余裕があれば、いろいろもっとうまくいくんでしょうね。


訣別はきっぱりと別れを告げることだけど、

そんなに大それたことじゃなくて、

関係を断つことではなく、

すごく大きなもので包んで放り投げることなんです。
結構テキトーでよいのではないでしょうか。



マーシャがトレープレフに告白したらどうなったんだろうなあ。

ただいま、制作中。

アントン・チェーホフ『かもめ』をベースにした作品と、オリジナルで一本。

まず『かもめ』について。
マーシャを担当しています。
演じるんじゃなくて、担当。

最近、物語に没入するということがなくなった。
物語と自分の距離が0になることに対する不快感。
だから役者をやることへの興味は薄れていたけど、

今回やっている『かもめ』は役を突き放して考えることが出来て

「ああこういうやり方があるのか」

って、ストンと自分の中に落ちた。

マーシャという役は、私に似ていると思う。
こういうこというの、恥ずかしいんだけど。
同じ女であること(私はあまり女役をやったことがない)、
年齢(ひとつ違い)、
自信なかったり自意識過剰なとこ(プライド変に高い)、
そのくせ、変なところで思い切ること
など、挙げればきりがない。

自分が嫌いなところや表に出したくないようなところまで似ているので、

普通ならやりにくい。

でも、「同化」することより「対象化」することをこの稽古場では行っているように思う。
あくまで役は役、自分は自分。
そう思えるので、楽。
そしてこのやり方が、新鮮で楽しい。

あと、お茶会(作品の一部)用にロシアのお菓子を調べてつくるのが楽しい。
演劇といわれるものに、演劇以外の要素が入って作品になっていく過程。

いろんな要素を巻き込んでひとつのものをつくっていくということは、何て面白いんだろう。


で、オリジナル。

とにかく、
「今、大学生はこんな感じです!」
っていうのがやりたい。

「あらわさないだけで、何か絶対こいつらあるはずだ」
というのがある。

で、やってみたら出た。

素材はごまんとあるので、どう組み立てていくか。

また、
「もっとよくするためにこうしたらいいと思います!」
っていうのが出てきたことも嬉しい。


ガチャガチャやります。


はなせば、わかる。


はず。

楽しもうと/面白がろうと一緒にやってくれる人々がいるのは、本当に幸せなことです。



そして、おいしいものについて。


おいしいものを食べると幸せです。

おいしいものをつくれる、

ということは

人を幸せにできる

ということです。

おいしいものをつくれるひとってすごい。

尊敬します。


ものを食べて「おいしい」って思ったとき、

身体がピクッと反応して新鮮になる気がします。

そしてあたたかくなります。

そういうものがあたえられるような人になりたいですね。


作品に対して

「お腹が満たされた/満たされなかった」

といういい回しをすることがあります。


私にとって、おいしいものを食べることと、ものをつくることはイコールなんだと思います。


おわり。

10/9(水) 振り子とチーズケーキ(演劇/KKP)
10/17(木) セツナイカラダ―ブスの背中/秋の泡―(演劇/Tricobo/ハイブリットハイジ座)
11/24(日) グッド・バイ エイリアン(舞台映像)
11/25(月) ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還
12/1(日) 危険なプロット(映画館)
12/5(木) 現在地(演劇/チェルフィッチュ)
12/8(日) 石のような水(演劇/作:松田正隆、演出・美術:松本雄吉)
12/17(火) 聖家族~大和路~
12/21(土) グッド・バイ(演劇/シス・カンパニー)、東京暮色(演劇/演出・松田正隆、専門演習クラス4年生)
12/25(水) ハンガー・ゲーム
12/29(日) マラヴィータ(映画館)
12/30(月) 星の子アルフェ
12/31(火) バック・トゥ・ザ・フューチャーⅠ~Ⅲ