人間というものは、本当に言葉により規定された概念・説明、それに基づく納得によってストレスが取れるという性質があります。逆に言えば、原因が分からないということが、もっとも人間にとっては不安なわけです。
精神分析の祖であるフロイトは、抑圧されたコンプレックスを解放させることによって病気が治るということを言いました。
犬が怖くてしょうがない、犬恐怖症である、街を歩いているだけで犬が怖くて外が歩けないという人がいるとします。これに対して精神分析では、
実は昔、子どもの頃に、本人が覚えてないけれども、犬にかまれたことがある、だからあなたは犬が怖いのだ。
といった説明をします。
それに基づいた治療法を編み出し、実践することで、その犬恐怖症は治るというわけです。
しかし、この最大の問題は、ではなぜ、そのことを思い出したことにより病気が治るのかという点についての説明が、まったくなされていないところにあります。
このことについては、我が国における精神医学の権威である小此木啓吾(おこのぎ けいご)先生に質問しても、説明がつかないとおっしゃっていました。
しかしこれは、一般に、我々が実感として感じることであり、原因不明でおなかが痛い、という苦しみよりは、病院で診断していただいて、これはこういう病気であるというふうに具体的に説明されたら、ストレスは大きく減ることと思います。
さて、法華経には、ハンセン氏病は、法華経の悪口を言ったからだということを以前述べましたけれども、これも一つの解釈ではないでしょうか。
もちろん、今から見れば非常におかしな話でありますが、まだ医学の発達していなかった当時から、法華経の信仰は非常に強く、社会的な力も強かった(今も強いですが)ですから、その法華経を信じている人に、原因不明でひどい病気にかかった人に対し、単に原因不明というよりは、具体的に、それは祖先が悪口を言ったからだと言えば、本人には全く責任はないわけでして、ストレスが大いにとれたかもしれません。
ここでひとつ、たとえ話をしましょう。
ある精神科の医師の病院に、ひとりのおばあさんが、患者としてやってきました。そして、どうもその、最近よく眠れないし、肩も重いし、胸も苦しいが、これは水子のたたりではないでしょうか・・・と、その精神科医の前で訴えました。
そうするとその精神科医は、こともあろうに、なんと、
「それは確かに、水子のたたりに違いありません。しかしながら、幸い、私は、霊験あらたかなる呪文を知っています。それではこれから、そのたたりを除いてあげましょう」
と言い、適当な呪文のようなものを唱えれば、そのおばあさんは、きれいさっぱり、夜眠れないとか、肩が重いとか、胸が苦しいといった具体的な症状がすべて消え去りました。
さて、この精神科医は、名医でありましょうか?
それとも、医師法に抵触しかねない、とんでもない医師なのでしょうか?
つまり、法華経の時代には、大変厳しい差別に苦しむ人がいたわけです。
ですから、そういった科学の知識もない、治すこともできない時代においては、先ほどのたとえ話のような説明も、あったのかもしれません。
現在、このことについて、あれは誤訳であり、厳密にいうと、原文は必ずしもハンセン氏病を指しているわけではないという反論が出ているようであります。
しかしながら、そういった解釈論はどうでもよい話であって、当時の人たちが、そのように信じていたということが、すべての事実だと思います。
本当に難病に苦しむ人がいた、厳しい差別をされる人がいくらでもいた時代においては、仏教で応病与薬(おうびょうよやく)、つまり、症状に応じて薬を与えるという意味になりますが、その難病や差別に対する薬として、法華経という劇薬が必要だったのかもしれません。
今から非難するのは簡単でありますが、差別と言っても、当時ハンセン氏病の差別、それに匹敵するような差別は、いくらでも存在した。そして、本当に病気で、どこか人のいないところで捨てられて死んでしまう人も多かったのではないでしょうか。
そういう時代背景を考えなければ、法華経におけるハンセン氏病の記述というのは、理解できないのではないかと思われます。
一方でブッダは、自分の教えでも、必要に応じて捨てなさい(いかだのたとえ(*))と言いました。
また、自分が死ぬ前には、戒律も話し合って変えればよい、と言いました。
ここで、宗教とは何かという定義を。
それは様々なものがあるかもしれませんが、一つのものとしては、一度決まったら、時代が変わろうが、医学が進もうが、その解釈なり教義を変えることができないもの、これが宗教であるとします。
これに対し、時代や科学技術の進歩によって変えることができるものは、宗教ではなく、一つの哲学、あるいは一つの教えと言えるものではないでしょうか。
もちろん、ブッダのオリジナルの教えは、後者に属するものです。
ですから、このブログテーマは、宗教に堕落したというテーマでありますが、これは現在の大乗仏教を必ずしも非難している言葉ではなく、時代が進んで、科学技術、とりわけ医療技術が進んだにもかかわらず、経典を変えられないという意味で、宗教に堕落した、つまり、時代時代において、変更を許すことができないというのが、ここで言う「堕落した」という意味です。
(*いかだの喩え) ある日釈迦は竹林精舎で修行僧や在家の人々を集めて言った。
「修行僧達よ、お前たちを執着の心を絶つ為に、今日私は最も大切な教えを説こう。」
そう言うと釈迦は静かに言った。
「例えば今、ガンジス川の川岸を行く人があって、洪水で水浸しになっているのを見たとしよう。
こちらの川岸は危険で、向うの川岸は安全である。しかし、向うの川岸に行く舟も無く、橋も無いとしよう。その人はこう思った。これは大洪水だ。こちらの岸は危険で、水に流される危険があり、安全な向う岸に行かねばならない。そうだ、草や木を集めて筏を組み、筏で向う岸に渡ろう。そしてその人は無事に向う岸に着いた。」
釈迦はそう言うと修行僧達を見渡した。修行僧達は釈迦が何を言おうとするのか解らなかった。釈迦は続けて言った。
「向う岸に着いた人は、その筏が自分を助けた命の恩人であると生涯、肌身離さず持っていた。さてこの人は筏について適切な処置をしたのであろうか。」
修行僧は言った。
「そうではありません。」
その言葉を聞いた釈迦は言った。
「修行僧達よ。この人はこの筏を岸に引き上げて、再びガンジス川に沈めたのであり、それは正しい処置であった。修行僧達よ、この筏の喩えを知るものは、総て真理も法も捨てねばならない。ましてや真理でないもの、法で無いものを捨てねばならないことは言うまでも無い。」
■ここでの法はブッダの教えのことである