こんばんは。

自伐型林業担当の山本です。

 

活動を始めて2ヶ月弱。

チェーンソー、刈払い機の講習受講、ユンボの免許を取得など、林業をするための基本的な資格も揃い、これから実際の施業に入っていこうかという段になりました。

 

新しいことを身に付ける楽しさの半面、実際に取り組んでみると、頭の中だけで思い描いていた時には考えもしなかった事柄にぶつかり戸惑ってしまう、そんな日々を過ごしています。

 

今月半ば、密集し過ぎた杉の木を間引こうと、木にチェーンソーの刃を入れた時のこと。突然、雨粒のような水滴が顔に飛んできました。実際に雨が降ってきたのかと空を見上げたほどです。でもそれは、春になり活動を再開した木が、根から吸い上げた水分が撥ねてきたものでした。

その時、この木は自分が刃を入れる直前まで生きていたということを強く感じました。環境がどうとか、放置された山林が良くないといった大きな話ではなく、木を伐るということは、他の生命を奪う行為なんだということをはっきりと感じさせられました。

 

私の目標としている「里山の整備」という活動も、結局のところ私の目線で綺麗だと思える自然を形作るために、その枠には入らなかった自然を犠牲にしていく行為なのかもしれません。

放置され木が過密状態になった山林は土壌が弱ります。そのため林内に日の光が入るよう本数を間引くことが必要になるのですが、その際、樹勢の劣るものや、菌類に食われ朽ち始めたもの、将来木材としての利用を考えた際に使いにくい形状の整っていないものなどを優先的に伐るのが一般的とされています。でも、大木の陰になっていて育ちの悪い木ばかりを間引けば、短期的には大きな木の繁茂する綺麗な森になっても、いずれそれらの木が寿命を迎えた時に次世代を担う木がいなくなってしまうし、朽ちているからといって伐採を続ければキツツキなどの野鳥などが巣を作る枯木立がなくなってしまう。形状の悪い木も、人にとって便利ではないだけで、本来は優劣などない立派な生き物です。

 

年齢も、種類も、癖(個性)も様々。そんな多様なグラデーションのある社会の方が豊かなのは、人間だけでなく森もそうなのではないか。そんなことを思うと、まだまだ自分の知識が未熟なことを思い知らされ、木を伐ることへの迷いが生じます。

 

原生林とは違い、今ある山の殆どは人の手が入ったものです。その山は放置すれば土砂災害に繋がったり、野生動物が人里に近付くきっかけになってしまったりします。だから継続的に人が入り、適度に手をかけることもやはり必要なことではあります。

ただその過程で木を伐るのであれば、たとえそれがどんなに細くて、生命力の弱いものでも、枝葉の隅々まで生かしきりたい。まだまだそれには知識も経験も遠く及びませんが、そんな風に木と向き合っていくのが林業なのかなと、そんなことを考えています。

 

林業経験2ヶ月の未熟者の戯れ事ですが、経験が浅いからこそ感じられる疑問や違和感を忘れないようにしたいなと思い、今日はこんなことを書いてみました。

 

次回はもう少し軽い内容について書いてみようかと思っています。

それでは皆さま、良いGWを!