建築のコンペを制作するにあたりコンセプトが決まってきました。「環境の位相による感覚の消滅」まぁこれも高野山で培われた密教に関することなんですが、最近感動することはありますか?私はあまり感動することが少なくなってきたというより、ほとんど無いですね、私の自論なんですが感動とはある欠如から生じるものだと思います。欠如とは感覚器官でもいいし資料でもいい、データでもいい。何か欠けている時感動が起きるようなきがします。密教の教えは極端な話をすれば五感で感じることがなくなれば空であるとういう教えですね、感覚をデータであるとして、修行で感覚を消滅できるという感じなのかもしれませんね、世界遺産である紀伊山を都市に持ってくる事ができないので環境情報を持ってくる来るにしても不必要なデータは削除されますからね、そのように環境の移動をするときにはかならずデータの消滅が起こるし、それによって感動も生まれてくるような気がします。カルト集団にしてもこのような環境のデータの管理者になったつもりで、データを削除するように移動する人々を削除していったのかもしれませんね、宗教自体は感動的な部分もあったのかもしれませんが、その感動を誘うような感覚等の管理者になったつもりでいたのかもしれません。そのように感覚や人の命さえも削除していったのしょうかね、ヾ(@°▽°@)ノ


私が引っ越してきた足立の最初の部屋を動画で紹介します。