大手町の将門の首塚にお参りして、神保町まで歩いた。

書泉の横の道の地下にある神田伯剌西爾(ぶらじる)という喫茶店に入ってなんとなく一息ついた辺りで、隣の隣の席の若い人たちの会話が聞こえてきたので盗み聞きしてた。

「○○、シェアハウスとかしてて意識高い系(笑)」

みたいな内容だった。

まぁなんというかもちろんそこには侮蔑の意がありありと含まれていて、そうやって人のこと見下してるよりは「俺意識たけー!」ってやってる方がいくらか意識が高いんじゃなかろうか?
と思った。

まぁ、でも所謂「意識高い系」の人が相対的にそうでない人を見下したりするのはままあることなので、そういう言い方したくなっちゃうのは仕方ないのかな?
と思ったけれど、ここで更に思ったというか気付いたのが、僕自身が彼らを見下すようなスタンスじゃね?ということ。

「見下す」

と言う心理は実に簡単にスルスルと自覚もなく心に入ってくる。
「自分は人を見下したりしない」
と大抵の良識のある人は思っていると思う。

僕もまぁそのつもりだったし、そうありたいとは思っている。
でも本当に些細なきっかけで本当にコソコソーっと「見下す」は忍び込んでくる。

僕自身軽度の鬱を患っているからというのもあるのだろうけれど、人の心理は悪い方にこそ転がりやすい。
今回は気づけたけど、他のどんな場面で同じ過ちを犯すかわからないし、だからこそそういう愚を犯さない人は人から尊敬されるとも思う。

天然物の人格者ではないけれど、それに近づくというか、そうあろうとする姿勢は失くしたくないなぁ。
なんて思った。