Ψ筆者作「朝の光り射す裏通り」 F30 油彩

いずれにしろ生と死ははっきり分けられるものではなく、どこかで溶け合うような、渾然一体となるようなものと思える。一定年齢を境に、人間は毎日少しづつ死んでいくというのは生物学的にも事実だろう。 またこれはヘーゲル流の弁証法でも語ることが出来る。「生」をテーゼ、「死」をアンチテーゼとした時、「生死一致」はジンテーゼ(第三の価値)として止揚される。当稿はそうした「ジンテーゼ」に係る考察に他ならない。哲学者の堀秀彦も、そうした生死を越える価値について考察している。少々長いがそのまま援用する。

≪…病気の跳梁に対して、精神は出番がないのだ。人間が、他の動物と違う最も本質的なものは、精神的存在であるという定義は、この段階では一切あてはまらない。私は長年、進化した生物、つまり「人間」として生きてきたが、最後は、自然のままに、「生物」として息を引き取るだけでしかない。「死にやすさ」、ということは、人間のそうした生物性を考えなければ、本当に理解することはできない。…私は遠からず、老化した生物として死ぬ。死ぬ直前、私は人間であることを多分意識していないだろう。そのことは、私を悲しませるどころか、今私の心に一縷の安らぎに似たものを与えてくれている…≫  

 唐突だが、筆者は人生を「のり巻き」の様なものとイメージするようになった。人生には、生業(なりわい)や家族や人間関係や生活や財産、人生の舞台となった自然や四季、その中の数多の生命、何より自我の存在があるのであるが、死でそれらは総て終了する。死の恐怖や生への未練とは 、それらをすべて失うことの恐怖や未練に他ならない。のり巻きは、その出口(終わり)と入口(始まり)スパッとシビアに切られている。あとは何もない。背景となる世界は、その存在と全く関わりない「宇宙空間」として諸々の現象、原理があるだけである。そして、のり巻き内の出来事はそれ自体として自己完結する。先の堀秀彦の言う「精神」とは、物質たる大脳の機能に他ならない。死はその大脳も死滅するのであるから、前述のような人生への執着は意味をなさない。早世や不慮や突然の死も、周辺は嘆くだろうが最早本人は関係ないのである。先の「生物として死ぬことの安らぎ」とはこの辺りのことであろう。問題は、そののり巻きが、恵方巻きのような、具材豊富な充実したものであるか、干瓢巻きのようなものであるかであり、これは本人の生き方に帰責すること。そしてそれらが、ウソ、ハッタリのない真実に満たされていたらそれで良いのだ。

 先に生死一致に係る弁証法の「ジンテーゼ」について述べたが、だとすると、筆者の人生のテーマである絵画のモティーフたる、現実の風景にもそのようなものがある筈だと日頃から思っていた。言わば、この世とあの世の境にあるような、どこかノスタルジックで、イマジネーションをそそる、精神の深いところに響いてくる、得も言われぬ快感を与える風景である。そういう風景には、なかなか出会えないし、出会えたとしても上手く表現できないこともある。その追い求める行為そのものが自分にとってのジンテーゼかもしれない。 (おわり)