本格的に絵を勉強したいと思った時購入したのが表示石膏像である。もう半世紀余の付き合いとなる。煤や埃、手垢で真っ黒になってしまい、余りに可哀想なので今般初めて掃除をした。沁み込んだたばこのヤニは落としようもなくかったが、なんとかその本来の白さが垣間見えるようなところまで回復したようだ。
この石膏像には、主(あるじ)の「波乱万丈」につき合わせ、随分と苦労をさせた。バカな父親が家をとられ、別ビルからは裁判沙汰で追い出され、骨肉の憎しみ合いの挙句の一家離散、その過程で練馬の借家、倉庫代わりの安アパート、中目黒のマンション屋上の倉庫、再び練馬のマンション等を経てやっと現在の拙宅に落ち着いた。時には引っ越しのトラックの助手席で筆者の膝の上で抱かれ運ばれたこともあり、狭い居宅の制作スペース確保のため処分を考えたこともあったが、結局どんな時も絵だけは描き続けたことの象徴のように、いつも筆者の傍にあった。
筆者のは、「グラディアトル」あるいは「闘士」(象徴的!?)という名の石膏像である。言うまでもなくこれは絵画の基礎的修業としてデッサンのモデルとなる。石膏デッサンにはその修業レベルに応じたランクがある、入門編は「面取り」と言われる、「大顔面」など本来の彫像の顔の部分を幾何学的に分解処理したもので、次に「ミロのヴィーナス」や「メジチ」、「アグリッパ」等の「首象」が初級モデルとなる。筆者の「闘士」は「胸像」であり、「アリアス」などと同じく中級モデルに属する。上級は「マルス」、「ヘルメス」、「ミケランジェロ」、「パジャント」、「ブルータス」等大き目の胸像となり、美大受験レベルはこれらとなる。更にこれより上の特級として「ミロのヴィーナス全体象」、「ラオコーン群像」などあるが、余程の所でない限りあまり描かれる機会はない。
その石膏像は、アカデミックな造形要素を総て含んでおり非常に有効な修行の対象である。列挙すればフォルム、プロポーション、トーン(調子、グラデーション)、立体感、質感、量感、ヴァルールなどを的確に捉える訓練要素を全部備えているということである。例えばこれら意義を風景画タブロ―で見るなら、岩も入道雲も立体感があるが雲には重さはない。岩には「量感(重さ、塊感、密度)」が有りこれらを描き分けなければならない。木の枝の間から青空が飛び出して見えるのはヴァルールの狂いである。青空のトーンを落とさなければならない。これらは勿論人物画、静物画にも適用される。
ただこれらが全部カバーされたとしても、それは物質に係るリアリズム表現が一応満たされたということに過ぎない。上記造形要素の中には「色彩」が含まれていないことに気づく。言うまでもなく絵画は、その色彩に加え、芸術としての表現性、情緒性が求められる。 石膏デッサンが基礎訓練の域を出ないのはその意味である。 因みに生きた女性のヌードは、上記アカデミックな造形修行の序列では特級の更にその上を行く難物中の難物であり、本来誰しも簡単に手がけられるものでないのだが、そこはタブローの懐の深さで別の活路が見いだされ得る。余計なことだが、世の女性は自らのそんな「偉大な造形的価値」に気づいていない!
ともかく、ここまでの記述は印象派位までの、古典主義、写実主義傾向の具象絵画に適用される修業体系である。セザンヌの系列を引き継ぐ、キューヴィズム、フォーヴィズム等の20世紀初頭の純造形主義傾向(フォルム、色彩そのものの可能性を追求する傾向)では、これら体系は無視、否定される。それはそれで当然良いのだが、ならばアカデミズムを否定し得る、それと同等の別の価値や修業体系が求められる筈である。形やスタイル、目先の面白さ、流行りものだけでは芸術はどうにもならない。
Ψ筆者宅にある石膏像