Ψ筆者作「アヴィニョンの橋」 M3 油彩
2.「個人請求権」は存在する
この辺りのことを纏めると以下様になる。
即ち、「戦争の罪」、「人権の罪」は時効のないものとして今日なお追究されている問題であり、それにより旧ナチスドイツ、旧東欧、中東の指導者らが、逮捕、処刑されている。それは、原爆投下やベトナム戦争、大義名分のない第二次イラク攻撃、CIAの暗躍など世界的に展開させた自らの所業を棚上げしたアメリカの御都合主義を除けば、事の本質の問題として全世界的に今日なお生きているということに他ならない。
とするなら、本邦への原爆投下、都市無差別空爆、「パンパン」、「アイノコ」に象徴される日本人婦女への人権、尊厳の蹂躙の被害者については、「降伏文書」、「サンフランシスコ講和条約」、「東京裁判」、「日米安保条約」等の国家間、政府間の「勝手な」法令、条約、取り決めとは別に、「個人請求権」の問題として議論されなければならない。同様に朝鮮半島の慰安婦、徴用工の当事者も、「日韓基本条約」、「日韓請求権協定」等の「勝手な」政府間合意と別に個人請求権の存否は問われ得る。
この個人請求権は日本の司法も否定していない。そしてそれが「韓国大審院」の司法判断として下された。三権分立は国の原則であり、その判決に不服なら司法の場で対処する以外にない。
然るに日本政府やかの陣営は、その謝罪や反省もなく、歴史的、文化的繋がりを顧みず、「日韓併合」は合法と言い放ち、35年に渡る朝鮮半島支配については、金で解決しているとの言い分を繰り返し、あまつさえ「ホワイト国除外」という、判決と関係ない経済分野での報復に出たのである。
因みに、アメリカはそういう「日韓請求権協定で解決済み」と言う日本の立場を支持し、政府もアメリカ様のご意向に心強くしているが、アメリカが個人請求権を認めれば、原爆投下等に対するそれも認めなければならないので、そうするのは当然なのである。
ここでも国家。政府、条約、法などの「現象」の問題と、国の独立とメンタリティー、個人の尊厳と人権等「本質」の問題のすり替えが見られる。もし後者を無視するというなら、中国の人種や行政の問題にも口出しはできまい。
早い話が、今日の日韓・日中関係の底流には、日本人が潜在的に持つ「三国人」よばわりの差別的人種評価ある。昨今の御用マスコミや体制のちょうちん持ち「文化人」の、「嫌中憎韓」はその本性を晒したものであり、それは最早冷静な報道機関の問題ではなく人種的優劣評価によるレイシズムそのもである。以下はかの夏目漱石の言葉である。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
当代一級の国民的作家にして、この軽佻浮薄な価値観の持ち主だった。文中にある「勝者」とは、安直に国策に与し、その優劣にこだわったもの、「支那人や朝鮮人」とは民族差別そのものである。そもそも民族性、国民性、あるいは個人の評価において、片方が一方的に悪であり劣等であるなどということはありえない。それぞれ優劣、善悪を併せ持つのが人間というものである。いずれも国家や民族と言う枠を一歩も出ない、普遍性や本質への視点を欠いた、現象の因果にしか視点が及ばない、文学者としては自殺行為に似た妄言である。この一言により、彼のすべての業績は灰塵に帰したと言っても過言でない。この辺に 正に最近書店を占領しているレイシズム本の源流があるようだ。(つづく)