Ψ筆者作「プロヴァンスの村」 SM 油彩

#3.「日韓問題」の本質

先ず日韓併合に係る「合法」云々について言えば、その「法」とは手続の是非の問題であり、事の本質に係る善悪の問題ではない。抑々、法や条約とは、折々の国際間の力関係や利害得失等により関係国の政治的思惑で勝手に決められることであり、事情や時代の変化に伴いその効力が失われたり、否定されたりするものであるということは東西の歴史を見れば明らかである。悪法も不平等条約もひとたび決められたら合法となるのである。「日本が併合しなければ朝鮮はロシアに盗られた」という論理も通用しない。あるものについて、人が盗む恐れがあるからと言って、自分が盗んで良いということにはならない。他者が盗むことを防ぐことに協力するに留まる。

1910年、日本は韓国を併合し、敗戦までの35年間、それを植民地支配する。その直前、大陸や朝鮮半島は日本を含め帝国主義列強が、その混乱に乗じ火事場泥棒のようにその地域の利権、覇権を求めて食指を伸ばした。ロシアも朝鮮も清も前近代的帝政が弱体化する中、日本がそれらを手中にする。魑魅魍魎どものサバイバルゲームの中、合法もへったくれもあったものではない。以下はその初代朝鮮総督、寺内正毅が日韓併合成就の祝宴で読んだ歌である。

  「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
 小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たち。
 これが当時の本邦エスタブリッシュメントの侵略的野心に満ちた本音である。どこにも歴史修正主義者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思がみられないどころか、秀吉の朝鮮出兵まで懐かしんでいるではないか。ついでに言えば、髭を生やし、ありったけの勲章を付け、サーベルをぶら下げ、偉そうにふんぞり返っている元勲や軍人の写真を見るたび、権力意識丸出しのこいつらが良い人間なわけがない、どうせ死ぬのは自分たちではない、芸者でも膝の上に乗せ国策を論じていたかと思うと虫唾が走る。これに対し、石川啄木は「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」という、日韓併合を怒り、併合され消滅した朝鮮国の悲哀に思いを馳せる詩を遺している。事象の本質に視点が及ぶ啄木と先の寺内正毅とは人間的レベルが違う。

 「日韓併合」に関し、これは朝鮮半島のみならず中国大陸、東アジア全域に及ぶことであるが、その「本質」的問題は、《力を以て他国の独立や尊厳を冒し、その民族のメンタリティーやアイデンティーティーを蹂躙、支配したということにある。》35年間の朝鮮支配の過程で行われたことは「創氏改名」、「宮城遥拝」、「教育勅語」などによる「皇国民化」である。また「人・金・モノ」は植民地経営の喫緊の問題となり、徴用、徴兵を行い、婦女には軍隊のシモの世話すらさせた。 然るにかの陣営は、そうした本質的問題をケロッと忘れ、インフラや社会制度を整備してやった、あれもしてやった、これもしてやったと恩着せがましく語る。何でもモノカネで解決できるという「賤民思想」が通用すると思ったら大間違いである。(つづき)