Ψ筆者作「テヴェレ川の橋」 F20 油彩(未完)  

 

ところで、筆者は以下のような存念を随所で述べてきた。以下がその趣旨である。

ある種の宗教や哲学には『無為』と『有為』と言う二つの一見相矛盾する概念がある。無為とは「永遠」、「絶対」、「真実」など『変わらない』ものを指し、有為とは反対に「諸行無常」、「万物流転」、「現象」等の常に変化し続けるものを指す。
 この互いに違背するようなものが何ゆえ併存しているのであろうか?
 これを私なりに解釈すれば説明がつくような気がする。つまりこれは、宇宙、人間、総て森羅万象に係る「二元論」である。
 この二元論に立って「変わらない」ものを「本質」、「変わるもの」を「現象」とした場合、人間が否応なしに位置づけられる時空とは、国家、政治、歴史、経済、法体系、生産社会、テクノロジー、マスメディア等総て「現象」であり、その人間も家族を最小単位とする、「社会的存在」と言う面において「現象」である。
 しかし科学に「原理」があるように人間もそのような「社会的存在」とは別の、「原存在」と言うべき側面がある。その人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられ、厄介な人生を背負い、泣いたり叫んだり右往左往しているではないか。モーゼの十戒、キリスト教義、イスラム教義、仏教哲学等はも今も数千年前と変わらず現代に適用されているのは、人間の本質が左様変わらないものの証左である。そしていつかその社会的存在面を剥ぎ取られ、否応なく原存在としての自我に向き合わされるのである。…》

さて、130億光年前宇宙はビックバンにより誕生した。その大宇宙の果ては130億光年先の彼方にあり、なお膨張し続けているという。その気の遠くなるような時空のなか、得体の知れない素粒子だか原子だかが、長い長い時間漂い、偶然と偶然が重なり合い、物質に生命が吹き込まれ、その一部が知性を帯び人間となった。やがて、アインシュタインやホーキングのような天才的科学者が宇宙の「原理」を究めるように、人や人生の「原理」を思索、創造する頭脳が現れる。≪真・善・美≫などの価値の追究である。これらは時にドラマティックな融合をする。長いこと宇宙や人間は創造主たる神が創ったとしてきたキリスト教の総本山バチカンは、近年に至りその「ビックバン」と「進化論」を認知した。芸術や哲学、宗教にとっても宇宙はイマジネーションの宝庫である。(つづく)