Ψ筆者作「フィレンツェ」不定形 油彩 

1.≪無常≫の真意

これまでの人生において折に触れ思い起こし、かつ改めてその先人の卓見に畏敬の念を持つ言葉が幾つかある。それは、≪行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。…≫というかの方丈記の冒頭と、≪祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵におなじ。…≫という平家物語の冒頭である。

これはともに実に今から800余年前、13世紀初頭に書かれたもので、方丈記の方がやや早く、平家物語もそれをしばしば引用している。言うまでもなくこの両者に共通したテーマは、≪無常観≫である。

筆者は他にも座右の銘としている言葉がいくつかある。井伏鱒二訳の「…さよならだけが人生だ…」は、学生の頃、字の上手い人に書として書いてもらい、額に入れて飾っていた。原作は800年頃の唐の詩人于武陵の《勧酒》であり≪勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離≫と言う詩である。

井伏はその最後の部分を「さよならだけが人生だ」と訳し、これが名訳として後々語り継がれたようだ。その言葉からは≪会者定離≫などの人の世の定めを語っていると解釈できる。

また織田信長が愛唱したとされる、幸若舞「敦盛」の《人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか…》

という唱も、人生とは一瞬の幻に過ぎないという、無常観を詠ったもの。

細川忠興の妻ガラシアは《散ぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ》との辞世の唱を残している。これも人の命運を泰然として受け止める覚悟の表明である。

余談だが、ガラシアは、石田三成の人質となった事が夫忠興の行動の桎梏となってはいけないとの思いから死を決意するが、周知のようにキリスト教では自殺は禁じられている。そこでガラシアは家老に隣室から槍で突かせ絶命する。その家老も直ちに切腹する。この辺りのエピソードなのであろう、極く近年、当時日本にいたキリスト教の司祭が日本の「姫君」のことを書いたとされる戯曲の原稿がオランダで見つかった。「姫」の名は「グレイシア」と言う。長いこと変な名だと思っていた「ガラシア」とは「グレイシア」のこととすれば納得がいく。

さて、縷々述べたがこれら先達の言葉を額面通り読めば、人の世は無常であり、人生はさよならだけであり、あきらめが肝心であり、ジタバタするべきではない、何もしなくてよい、と読める。事実そう解釈してこれらに否定的な見解に数多く出会った。しかしそれは浅読みであり、皮相な考えであろう。ずばりこれらは、人生や人間とはそういうもの「だからこそ」、一度きりの人生をどう生きるべきか、と言う積極的な問題提起に他ならず、それ故にこれらの言葉が大きな意義をもつものであり、その根源的な意味を読み取らなければならないのである。

(つづく)