Ψ筆者作「フィレンツェ」 F30 油彩

佐伯祐三に、「日本の風景は絵にならない!」と感じさせたのは、日本の風景に、彼の造形的イマジネーションを惹起し得ない貧弱さを感じたからであろう。佐伯のイマジネーションの根拠はその造形感覚、美意識にある。石造りの道や壁の硬質な佇まいは、佐伯の造形資質と手製支持体、マティエールに適う。煤けた店先やカフェの椅子、工場、公衆便所にすら美の所以を見る。折り重なり、破れ、掠れたポスタ―やその洒落た横文字、ガス灯や広告塔、尖塔、並木等の縦に伸びる線等、これらは日本の風景にはないのだ。
一方で佐伯は、セーヌ、エッフェル、シテ、ノートルダム・ドパリ、モンマルトル、サン・マルタン等、他の日本人画家達が、パリの象徴として、「100年の恋」のような思いで描いた、世界に冠たるパリの名勝地はほとんど描いてない。それらには彼のイマジネーションは多く通わない。
佐伯はそのイマジネーションのために命さえ失う二度目の渡仏を敢行する。
一回目の渡航帰国後の二科出品作は「画壇を震撼させた」と言われている。佐伯は藤島武二や石井伯亭など画壇の大ボス達の知遇を得、その後名を成す多くの画家仲間等の人脈も得ていた。前述の二科では、その石井の計らいで異例の19点全作展示と二科賞受賞、佐伯にヴラマンクを紹介した里見勝蔵らとの「1930年協会」設立、一点でも文展や二科に入選すれば新聞記事になるようなご時世、正に人も羨むような「出世コース」の環境があった。今日でも数多その例を見るが、そのような本邦特有の文化的土壌にあって、上手いこと振る舞い、そこそこやっていれば相当な画壇の地位に上り詰めることもできただろうし、そもそも三十で死ぬことも、愛娘が早世することもなかっただろう。しかしそうなった場合、作品は今日ある評価を見ることはなく、凡庸な画家で終わっていただろう。
佐伯に限らず、ある種の芸術家は。その純粋なイマジネーションのために現実と妥協せず、宿命を受け止め、それに殉じる場合すらあるのである。
(つづく)