Ψ筆者作「モンサンミッシェル」 F120 (部分)
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 筆者は冒頭、平家物語や方丈記の一説に、かの時代、早くも歴史の流れや人の世の運命(さだめ)を看破したものがあったということに感銘を受けたと述べた。
筆者の解釈では、それは明らかに「現象」のみに眼を奪われることなく、その「本質」に視点を据えた「二元論」と言えるものである。
縷々述べた、先の大戦前後から現在に至るまでの政治、歴史、文化等の各分野から筆者が得た感慨とは、正に上記視点に基づくものに他ならない。
例えば、芸術とか宗教の本質的意義は、「美」や「価値」や「真理」の追究と、そのための「修行体系」にある。本来それは、個人の精神や創造性に係る純粋なものである。一方、美術団体とか宗教団体というのは、集合体としての指標や目的やメカニズムを持つ、一つの「社会」である。生身の人間としてはそういう世界生きて行かなければならない場合もあるだろう。だから、そのことを識別しつつ良い方向でこの二者を融合させればよいが、悪い方に混同、あるいは逆にはっきり乖離させてしまうのが現実である。美術関係で言えば、先に述べた「彩管報国」や「日展問題」などの現に発生した事例はその証左である。
科学技術の世界でも、その真理や可能性の追究に係る個々の科学者、技術者等のモティベーション、情熱、努力、知識、経験、達成感などは、各人の人生や人間性を支え、場合により人類福祉に繋がる可能性もある「本質」の問題である。
一方でこれらが、生産性、利便性、利潤、政治的経済的アドヴァンテージ等現象世界のメカニズムとその結果評価のみに終始したら、例えばそれが悲惨な戦争や深刻な先の原発事故のような事件に結びついた場合、余程の鈍感でもない限り、今まで自分がやってきたことは何だったのかと人生を否定され、たちどころに行き場を失うような思いをするだろう。
一般企業の場合でも、倒産や廃業等何某かの事由でその存在が失われた時、あるいは定年等で生産社会からリタイアした時、それこそ「産業廃棄物」にならない、決して無駄とならないものは、前述の、自己の生き甲斐となった本質に係る諸々である。
もう一つ、例えばマルクスの「資本論」は生産社会の中の人間解放を模索した、単なる経済書を超えた哲学書とでも言うべきものであるが、これの最大の不幸は「崩壊」に至る最悪の政治主義モデルに結びついてしまったということである。では、それを一生懸命勉強してきた数多の人々の一生は、その政治主義モデルの崩壊により無駄に終わったのかと言えば決してそうではない。なぜなら滅びたのは「現象」であり、資本論の語るものは、永く人間存在の有りようを問い続ける一方法論哲学たる「本質」だからである。資本主義は生き物であり、生き物はいつか必ず命脈が尽きる。その時人類を救うのはそれかもしれないのである。
即ち、筆者は森羅万象常にこのような二元論的思考により、初めてその全体像が見えてくると信ずる。然るに本邦の現下は、既に子細したごとく、現象世界の因果評価に終始し、あまりに軽佻浮薄、知恵足らず、愚俗、最早自壊を待つ以外に手に負えないような状況に思える。しかし、元より「天上天下唯我独尊」の釈迦や「最後の審判」のキリストならぬ我が身、だからと言って世や人に向かってどうしたい、どうせよと声高に叫ぶつもりはないが、一人憤懣を抱え消耗するつもりもない。
正にデカルト先生の言った通り世は疑いに満ちている。而して「我思わなければ我存在せず」は真理である。筆者にあっては、現象世界のほとんど、その先行きやボトムが見え、つくりものには、信じることも、教えられることも、感動もほとんどないというのも事実なのである。そういう「現象」には見切りをつけなければならない。アンタが世や人を信じるというのは勝手だが。世や人の方は最初からアンタのことをまるで信じてないということ、これは確実に言える。現(うつつ)を抜かしていると、「法の上に眠るものは、法はこれを保護しない」のごとく、いつか天の法罰は自らに帰ってくることになるだろう。
古今東西優れた先達や芸術家は本能的に、「現象」とは違う世界にこそ自分たち生き、向き合う価値が存することを看破した。彼らが命を賭け、数多の犠牲を払いながらもの指し示した世界を信じる。歴史は過去の体系ではない。普遍の体系である。それを究めればその分、美とか真理とかの「永遠」に近づくことが出来る。そこには国も時代もないし生も死もない。
森羅万象に「現象」と「本質」があるとするなら、眼前の風景にもそれがあるはずである。セザンヌはなぜあのように「サント・ヴィクトワール」を繰り返し描いたのか?ゴッホが描いた星月夜や糸杉や麦畑は、実風景の中では「パーツ」にすぎないのに、なぜ「主人公」にできたのか?佐伯祐三は何故「日本の風景は絵にならない」として、実際に失うことになる命までも賭け第二次渡仏を敢行したのか、彼らは風景のなかに自我の存在に適う「本質」を見、それを作品の中に抽出しようとしたのである。
筆者もこの世とあの世の境にあるような、ノスタルジックでオマージュに満ちたその情景、それを目に焼き付けることを目途としてかの地を訪れた。そういうモティーフを探し、描く。それは実際の情景である必要はない。観光客でごった返していたものを、人っ子一人いないものとし、その中に太古の昔と変わらない光や影を施す。空も水も緑にそよぐ風もそれらしくイメージする。小賢しい作為は必要ない。勿論諸々の「スケベ根性」は排する。総てがそのような目途に適う作品となったわけではないが、理想とする風景画への道は開けただろう。更に試行錯誤は続く。
(暫時休止)