Ψ筆者作「滞船オワーズ川」 F10 油彩

《テクノロジー、マスメディア、映像メディア、音響メディア、グラッフィックメディア、インターネット、IT(information technology)、エレクトロニクス、商業美術、アドヴァタイジング、漫画・アニメ、3D、コンピューターグラッフィックス…こうしたものの中で「アート」を名乗るものは多い、と言うより、それが時代の中核であり、最先端であり、アートシーンの最前衛であると主張する。
筆者はそれらには懐疑的である。その底流にほぼ共通して流れているものは、「面白さ」という快楽趣味、「視覚の驚き」等の刹那主義、「目新しさ」、話題性・流行を目論む「ポピュリズムリズム」、商業主義…それらがどれほど事象の本質を炙り出し、原理や真実を究め、人間の「原存在」に語りかけるような力があるだろうか?
それらからもたらされるものは、シリアスに現実と向き合うことを避ける、イマジネーションや創造力が希薄、「個」が存在しない、受け身で、集団的で、流行りもの、言わばマスプロダクションされる「使い捨て文化」に他ならないということは後で述べる事例でも明らかである。
ところで、「スーパーカミオカンデ」という、ニュートリノを捉え、大宇宙の原理を探ろうという施設がある。それは、気の遠くなるような宇宙という極大とそれを構成する超微粒子という極小の世界の結びつきを、地下深くの巨大施設で探ろうというものである。それは、膨大な量の水と整然と並んだ数多のライトで、天文学的に小さな光からその質量さえ証かそうとする。
一方、テクノロジーやエレクトロニクスを駆使したような「現代アート」をしばしば見かける。それらはいかにも最前衛の現代美術であり、芸術の新たな地平を切り開らいているかのような、評論家だかキュレーターだかの評価が付加されている。それは、テクノロジ―等の本来持つ機能を「芸術的に」展開させたということだろうが、カミオカンデ等、その美しいロマン溢れる舞台や「原理や真実」を抽出しようとする壮大なパフォーマンスが、テクノロジ―の究極の姿としてすでに現実の世界において実存している中で、その「思いつき」程度の、形やスタイルから入って、中身がスカスカなものがどれほど芸術的意義や深みがあるだろうか?それらに「話題性」を加えればそれはディズニーランドやCGを駆使したアメリカの娯楽映画と変わりないとさえ思う。
テクノロジーやエレクトロニクスの、本来の機能とは違う「芸術的展開」は他にいくらでも可能。これらが次から次に出てくればそれらは結局「並みの」テクノロジー、エレクトロニクス等の「遊び機能」に他ならず、陳腐となり、飽きられ、「個」も「メッセージ性」もイマジネーションも思想も無いものは時代が移れば何も残らず、時代と共に消えていくのは必然。》
《過去にも時代を背景とした、シュールリアリズムやポップアートなどの「現代美術」はあった。しかしともに、芸術の意義や原点は忘れていなかった。前者は、もうそれ以上divide(分ける)されるはずのない、宇宙の最終単位「個人」(individual)を、精神精神分析や「オートマティズム」などへの着目でさらにdivideしてしまったし、後者は、マスメデイアやテクノロジーの発達により巨大に膨れ上がった現代社会の裏側から、薄っぺらな存在となってしまった人間を照らし出した。この芸術としての意義により、ともに美術史上にその位置を占めているのである。
「現代アート」を名のるものは多いが、多くはこのような時代的メッセージ性がない。「現代」の意味も分かってないようだ。ルネサンスも印象派も、それぞれの時代では「現代アート」だったのだ。20××年、今日、只今の芸術としての意義を探らなければただの「同時代アート」に過ぎない。
移ろい易い現実に迎合すること、これこそ本当の「ヴァーチャル・リアリティー」(仮想現実)に他ならない。》
(つづく)