Ψ筆者作「野辺のひと時」 F4 油彩
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それはまず1938年東京朝日新聞主催の「戦争美術展」に始まる。これは洋画は日清・日露戦争を主題とする戦争画、日本画は神道、武士道をテーマの歴史画が中心であったが、「戦争」を「美術展」の冠詞とするなど今日では考えられないような、当代の人心の戦争に対する「免疫性」を物語るものである。同じ頃「大日本従軍画家協会」が設立される。趣旨は従軍画家達の大同団結とそれによる「国防宣伝、宣撫工作、慰恤等に絵画を以て尽力する」ことであり、陸軍省後援で役員には官展側の藤島武二、在野(二科)側の石井柏亭等が就き、まさに先に述べた「松田改組」の成果を語るものであった。
 翌年それは陸軍の外郭団体としての「陸軍美術協会」となり、会長は松井石根陸軍大将、副会長は藤島武二(藤島死去後は藤田嗣治)、その後会則に「陸軍省情報部指導ノ下ニ陸軍ガ必要トスル美術ニ関スル総テノ問題ニ即応之ヲ処理シ以テ作戦目的遂行ニ協力スル」と、明確に戦争協力をうたい、名実伴に「軍芸一体」にものとなる。
 以後毎年、否年何回も、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「海洋美術展」(海軍)、「航空美術展」、「紀元二千六百年美術展」、「決戦美術展」など、名こそ違え戦争、軍事絡みの美術展がいくつも開かれ、それらは通常の美術団体展を遥かに凌ぐ観覧者を集めるのである。
 こうした一連の動きには先の藤島、藤田の他、中村研一、小磯良平、宮本三郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、伊原宇三郎等、多くその後の日本画壇や美術団体の中心的存在となるの画家達の名が見える。
 そして戦局緊張の度を加えた1943年、「大政翼賛会」文化部指導により「日本美術報国会」が結成され「彩管報国」は一層明確となる。この会長は横山大観であり、彼が「紀元二千六百年奉祝美術展に出品したは「日出處日本」は、「神洲の霊峰を墨一色によって表はし、これに真紅の旭日を配した。これは筆技を超えた大観の優作であって、その奉祝の誠意を吐露した作品である」との評価を受けたが、それが時局を背景とした国威発揚の意義の評価であり、彼もそれを意図したものであることは疑いない。》
《ところで、藤田嗣治に「アッツ島玉砕」という戦争画がある。これは題の通り、「大東亜戦争」後期の、日本軍アッツ島守備隊を描いたものである。これはそれまでの「戦意高揚、国威発揚」の軍艦マーチ的絵画と趣を異にする。テーマは「玉砕」という戦術的敗北であり、史実から玉砕したのは日本軍であり、本来ならば軍部はその公開を憚るべきものであろうが、傍に賽銭箱を置き、藤田本人に金を入れる観覧者に黙礼させるということまでして公開を認知した。一体その意図はいかなる所にあったのであろうか?それは、戦局の悪化を背景として、単なるプロパガンダ絵画の域を超え、銃後の国民の精神の有り様にまで深く踏み入ったものと言える。即ちそれは、「お国のためなら」という死の美化、「聖戦」完遂のためその後本当にスローガンとなる「一億玉砕」をも覚悟すべしとのメッセージ性を込めたものととらえられる。
 もしそうなら、絵画という有史以来の伝統ある表現メディアが、ここに至り人間存在そのものの否定に繋がる手段として国策に加担したということになる。 
 藤田は彩管報国の代表格として批判の矢面に立ちがちだが、彼なりにこれは必然性のあることであった。彼の家系図を見ると各界の「錚々たる」人間と縁続きである。彼の父親は医者、それも軍医のトップである軍医総監(中将相当)であった。因みに前任の総監は森鴎外である。
 先の「アッツ島玉砕」の絵も、観方によれば戦争の悲惨さを告発するような「反戦絵画」にもみえるし、「将官待遇」の子の藤田でなければ展示禁止の措置を受けるようなものであるがその意図は先に述べたようなものにあったと見るべきだろう。
 その藤田はフランスに渡りレオナルドとなるが、ここでの問題は、前稿で挙げた藤田以外の画家達のことである。これらの多くが戦後において各団体の幹部として生き残り、美術界の現況の礎を築いた者らであり、前記太字で書いた部分を含め、世界美術史上の最大汚点である「彩管報国」に対する総括を何もしていないということである。例えば高村光太郎は戦時、「報国文学会詩部」の部会長となり、戦争賛美の詩を数多く書き、国策協力の立場をとったが、敗戦後「わが詩をよみて人死に就きにけり」との詩を残し、国家褒賞も辞退し東北の山奥に籠る。このような自我におけるけじめ無く、何食わぬ顔で戦後の地位に居座ったのである。
 縷々本邦美術会の問題点を述べた。国家支配、権威主義、ヒエラルキー、情実主義これらは日本的伝統、因習であると言ったが「彩管報国」とはそれらすべてが底流で繋がっていることの結果と言える。
 別項で述べた中曽根康弘(当時自民党幹事長)の言葉をもう一度あげる。

「長谷川利行の如く文化勲章や芸術院会員を目指さず、庶民大衆に根差した美術が権力美術や幇間美術を上回る時、初めて日本にも真実の美術国家が誕生するものと思う。政治を志す私なども、大いに利行芸術を学ばなければならないと思い、私は事務所と応接間に飾って慌ただしい毎日を例え寸刻でも眺めながら心の糧にしている。(1972年2月長谷川利行展図録)」
 「幇間」とは太鼓持ちのことである。美術界に「太鼓持ち」や「芸者」がいるなど考えたくもない恥辱である。しかし、否定もできない。》

(つづく)