Ψ筆者作「ロワール川好日」 F6 油彩
言うまでもなく画家は「表現者」である。その表現性は様々であるが自己のそれに拘わらず、一般論としての「表現」そのものの意義や目的に関しては当然に鈍感であるべきでない。古今東西、その「自由」と、その表現が可能な時代的環境に関し、芸術家はこれを脅かすような国家とか社会と戦ってきた。本邦においても、文学者や映画・演劇人団体・個人が、そういう危機に際しては声を上げてきた。ところがこの種の行動を美術家連盟や美術団体が起こしたという事実を筆者は聞いたことがない。ために何のための団体なのかその種の意義を感じたことがない。この保守性は何処から来るのか?
以下歴史的経緯から考察する。前記日展事件もそうした本邦特有の土壌と関係するのである。
《…本邦には西洋にない独自の文化的土壌がある。それは、朝廷・天皇家と権力者・幕府・政府と言う二重の権力構造と、島国という閉鎖環境の中で醸成された国民性による。言葉をランダムに羅列するだけでもその中身は説明されよう。≪権威主義、ヒエラルキー、官尊民卑、地縁血縁、門閥学閥、徒弟制度、家元制度、世襲制度、村社会…≫その国民性は文化・芸術においてもその因習、伝統として反映される。日本の「伝統芸能」などほとんどそれである。その最大の欠陥は真の「個」が育たないというところにある。個も集団性の中のそれでしか過ぎない。
本邦美術界は明治期の西洋絵画導入時に、その画法だけが取り入れられ、その個の精神は置き去りにされた。》
筆者ブログ「近代日本洋画史逍遙」より
≪明治維新以降の国策のスローガンとは「富国強兵・殖産興業」、「欧米列強に追いつけ追い越せ」の掛け声であり、諸外国から持ち込まれる情報に驚き、価値観の転換を迫られ、遅れを取り戻すべく諸制度の整備を急いだ。これは外交、政治、経済のみのことではない。文化・芸術もその国策の一環として位置づけられ、絵画においても、西洋画の明暗法、立体感、遠近法などの新しい造形性の導入は必然のことであった。例えばそれは、それまでのりんごを「円」で描くと言うのではなく、「球」で描くと言う合理性、科学性を求める。こうして、油彩と言う新しい素材を得ての造形アカデミズムの修行体系が確立される。 こうした背景の中から、やがて本邦洋画界は
〇明治美術会(浅井忠ら)→不同舎→太平洋画会→太平洋画会研究所(ヤニ派・古典主義系)
〇白馬会(黒田清輝ら)→白馬会研究所(紫派・外光派系 )
の二系統を中心とした勢力に大別される。
この両者はともに「官展」である文展(文部省美術展)、それを引き継ぐ帝展(帝国美術院展)の傘下におかれ互いに勢力を競った。また工部美術学校から東京美術学校西洋画部にいたる教育・修行機関も官立であり、美校の、浅井忠の「浅井教室」、黒田清輝の「黒田教室」はそのまま前二系統の反映であり、その後の藤島武二らを加え、洋画界の指導者的立場にあるものは、官展のボス、官学の教官、即ち文化官僚であり、黒田にいたっては後に「貴族画家」たる貴族院議員となった。
つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。
川端画学校などの民間画塾もその修行機関であり、本邦近代洋画界に名を残した画家達でそれらのいずれかに連なっているいない者はないといってよい。というより、何かに連ならなければ画家として認知されなかったというべきだろう。
当初「文展出品者の出品を禁ず」をうたい明確に「在野」を旨とした「二科」以下も、例の「松田改組」と言われる国家による芸術抱きこみ策に飲まれる。やがてその国家支配・統制は戦争に傾斜していく国家主義の中では一層顕著になり、「彩管(絵筆)報国」はスローガンとなりやがて「日本美術報国会」や「戦争美術展」に繋がる。この日本美術報国会の会長が横山大観であり、彼の「富士山」は多く「国威発揚」のため描かれたものである。その「従軍画家」などの生き残り画家らが敷いたレールの上に今日の美術界の現況ある。…≫
《…先ず最初の官展は第一次文展である。この文展は、明治美術会(後の太平洋画会)と白馬会の二大勢力がそのまま官展の中心となり、白馬会も太平洋画会も独立した団体展を開いていた。ここに今日の日展の「傘下団体」システムのひな型がある。因みに、1911年白馬会解散直後その白馬会系列の画家によって1912年光風会が設立されたが、同会が今日日展の有力傘下団体であるという因縁は他会派ともどもこの辺りにまで遡る。ほぼ同時期にできた二科会はそもそも「反官展」を標榜していたし、春陽会は最初から非官展系であった。いずれにしろ本邦洋画壇は当初から美術団体と言う集団性と官展の傘下団体中心主義の中にあったのである。
勿論こうした公募団体は、官展たるル・サロン(今日のサロンとは違う)サロン・ドートンヌなど御本家西洋画壇にもなかったわけではない。しかし周知のように印象派はそのサロンから排除されたグループであったし、本邦のように画家の芸術性が団体の実績や地位と不可分ということはない。
本邦美術界は左様に団体中心の下で日本的因習・伝統を形成してきた。団体とは国家により管理されやすい。その長い経緯から画家のDNAには「お上(かみ)御用」を最高栄誉とする「お抱え絵師」根性が巣くっているのは否定できまい。これが国家褒賞(文化勲章、芸術院会員)を最高栄誉としそれに連なるヒエラルキ―である。これは非日展系も同じ。「内閣総理大臣賞」を最高賞としている団体は多い。そのヒエラルキーの原初的システムが諸々の「推挙」システムである。筆者はこれが諸悪の根源と考える。》
(つづく)