Ψ筆者作「コロッセオ1」 F10 油彩

《…かの国民的作家、当代のインテリ階層を代表するような夏目漱石は以下の言葉を残している。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
その秀吉の朝鮮出兵から西郷隆盛の「征韓論」、台湾・朝鮮の併合と総督府設置、創氏改名、大陸侵攻等、実際の軌跡を見れば明らかであるが、これらの言葉のどこに歴史修正主義者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。漱石も森鴎外(軍医総監)も国家に庇護され、国家的権威を与えられ、国家による文化管理の一翼を担った、「文化官僚」である。漱石に限らず、当代の文化・芸術の多くが天皇を頂点とする強大な国家主義の支配下におかれ、その現象世界の因果で終始する思想は本質への限界を示し、故に筆者には「国民的作家」たる評判を安直に受け入れる思考回路はない。
これに対し石川啄木は以下の詩を遺している。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」
啄木の、良く知られた、日韓併合により消滅した朝鮮国の悲哀を思い、身勝手な国際政治の理不尽を怒る詩である。この辺が、自我の存在を「国家」の枠組みの中で支える漱石らと純人間的次元に置く啄木の資質の違いである。言うまでもなく、時流に流されず冷静に事の本質を見つめる、これが誠の芸術の使命に適うことである。》
「中国人」、「朝鮮人」に対する偏見と差別主義は、世界中で否定された前時代的「負」の価値体系であり、それを当たり前のような顔をして、一部大手マスコミや趣味的御用文化人が煽り立てる。特定の民族と本邦の民族性を比較して、その優劣を語ることは誠にご都合主義も甚だしい。人間に長短あるように、どんな人種も国民も長短はあり、一々その民度をあげつらうのはキリのない話。昨今の大手御用マスコミの「嫌中憎韓」の出版物は、最早真っ当な批判を超えた、日本人が潜在的に持つ中朝(韓)民族への差別感情を擽る、偏狭かつ胸の悪くなるようなレイシズムとポピュリズムに裏打ちされている。それは、新大久保の「ヘイトスピーチ」と大して変わりない。それは、ヘイト文言の使用により自己を卑しめることに抵抗のない、その意味で人間的プライドのない「オレオレ詐欺」と変わりない。
「日本人に生まれて良かった」というなら、「エコノミックアニマル」、「ワークホリック」(働き中毒)、「土建屋国家」、「賎民資本主義」、「権威主義」、「集団主義」、「島国根性」…等かつて欧米からもその国民性を揶揄され貼られたレッテルにもまともな反論をすべきであろう。ついでに言うなら、仏教も漢字も、カレーライスもハンバーグも、餃子も焼肉も、ビールもワインも、野球もゴルフも、全部「あっち」のものである。
(つづく)