Ψ筆者作「ポントワーズ」 P12 油彩

以下前者を「現象」、後者を「本質」と定義し論を進める。この「二元論」の中の「現象」を「疑えば」以下様になる。
「人間と、人間社会はすべからく信じるべきではない。それはウソとハッタリとご都合主義とホンネとタテマエの使い分けに満ちている。人間はいやらしく、脆く愚かで、実は他愛ない、いじらしいくらいの哀しい存在なのである。人生は苦しく、悲しく、恐ろしい。
言語はウソ臭く、コミニュケーションは不毛、幸福、喜楽、快楽は一瞬の幻想、世に数多の処世訓、人生論、価値体系、美辞麗句あるが、それらのほとんどは人間社会や人間関係を合理的に維持管理する方便、スローガン、約束事、慣例に過ぎない。予め用意されているものや、外部から与えられるもので本当に自我の「原存在」にまで届くものはほとんどない。「愛」や「絆」や「友情」など、これほど脆く、胡散臭いものはない。それらにどれほどの諸々の不純な思惑が絡んでいるか分かったものではない。「金の切れ目が縁の切れ目」とはよく言ったものである。「看板」を外したら疎遠となった友には「看板」と友達だったんだと思う。
「義理と人情」は歌の世界、願うは大木、叶うは妻楊枝、金も力もあの世まで持ってはいけない。「徹底追及他人の失敗、笑ってごまかせ自分の失敗」、「他人の不幸は蜜の味」、権謀術策、足の引っ張り合い、上に諂い下に傲慢、バカは死ななきゃ治らない…etc.
これらが渦巻く日常性の中で、その都度敵や味方を作り、なんとなく誤魔化しながら生きて行く。そして、諸々の喪失や失望、老・病・死などのシビアな現実を突き付けられた時、初めてその本質を知り、俄かには救いは得られず、やがて「諦念」を唯一の救いとして人生を終わるのである。…嗚呼、御名御璽!」
かように「現象への疑い」は限りなく出てくる。一方で、総てをそのように疑うことしかできない、信じることができないというのは、「不幸な人間」と言われたりする。確かに、人や人の世を信じるのはヒトの勝手である。疑うこと自体からは何も生まれず、解答を見つけるのには相応の能力や努力が必要であるが、それがないと厭世観に苛まれたり、鬱病に陥ったりするだけだろう。仮にそれができたとしても、そこから先の問題はいっそう厄介なものとなろう。「知らぬが仏、言わぬが花」、余計なことは考えず、気づかず、目の前にぶら下がっている日常性をソツなくこなして行く方が楽だし、現象世界で何某かのアドヴァンテージを求めて努力するのも「生き甲斐」には変わりない。どう転んでも、たかだか80余年の人生、悔いが残ろうと恥をかき捨てようと死んでしまえば本人には関係ない…とも。
しかし、現象がそう言うものなら、そこだけでしか生きられない、それ以外は知らないというのはもっと不幸ではないのか!?
(つづく)