Ψ筆者作「廃園の青いバラ」 F40 油彩
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  古い話ばかりではない。安保法制や改憲について、その陣営の主たる論拠は「万一に備える」ということである。その「備え論」が本当なら、オリンピックなど招致できるはずがない。「東南海トラフあるいは首都圏直下型メガクエークが起こる確率は、向こう30年以内に70%以上」である。万一どころの話ではない!こうしたことを無視し、たかだか20日間程度の国際運動会に莫大な金をかけ、それこそ一か八かで行う必要性がどこにあるのか?!
 昨今の天災地変に鑑み「防災」を言うなら、そういう時、横須賀を母港とするアメリカの原子力空母が大津波で打ち上げられたらどうするのか、戦争と原発の関係では、北陸地方の原発銀座がミサイル攻撃されたらどうするのか?
 要するに、総てご都合主義、都合の悪いことは考えない、あるいは自分たちの都合の良いように考える、国民には知らせない。これが「現象」たる政治である。
 「空蝉」(うつせみ)とは現身(うつしみ)をかけた、儚いものを指す美しい古語であるが、選挙のたびに「ジミン、ジミン」と鳴くセミは、上っ面の満足や話題性や利害関係や情報操作、世論誘導に乗せられた「空(から)蝉」であろう。

 政治・経済世界がそんなものでも文化が健全なら救いはある。ところが現実はそうではない。
 一昨年の「日展問題」は、純粋であるべき芸術が、美術団体という「社会性」を帯びると、俗臭紛紛の「現象」となるということを曝け出した。その権威主義、ヒエラルキー、悪しき因習、金で入選を買い、人脈で出世が決まる…語るも憚るその様は、他の団体や伝統文化も同様である。そしてこれが、「看板と勲章に額縁つけて売る」世界に稀な年鑑評価型のハッタリ市場体系を生む。胡散臭く物欲しげな「ガレキ(画歴)の山」の表示にはウンザリである。
 一方、3D、CG、PC、描画ソフト、スマホ、ゲームソフトなどのテクノロジ―文化、マンガ、アニメなどのメディア文化、映画、演劇、その他エンターテイメントこれらの多くは商業主義を背景に、視覚の驚き、流行りもの、刹那的享楽趣味、利便性、話題性などでその価値が決まる「ポピュリズム」にある。電車の中で10人が10人、四角い電子機器を夢中でいじっている光景には哄笑を禁じ得ない。その無個性、創造力のないワンパターン!(筆者も不本意ながら今回の必要性からスマホを手にしたが^^)
「現代アート」も、受け狙いだけの、形やスタイルから入って、中身がスカスカなものが目立つ。その限りにおいて、これらは、大量生産・大量消費の使い捨て文化として、時代とともに消え去る命運にあるだろう。
事実、音楽や映画で将来に向かって残るだろうものは思い浮かばない。
 過去にも時代を背景とした、シュールリアリズムやポップアートなどの「現代美術」はあった。しかしともに、芸術の意義や原点は忘れていなかった。前者は、もうそれ以上divide(分ける)されないはずの、宇宙の最終単位「個人」(individual)をさらにdivideしてしまっし、後者は巨大に膨れ上がったマスメデイア・テクノロジーの世界の側から薄っぺらな存在となってしまった人間を照らし出した。この芸術としての意義により、ともに美術史上にその位置を占めているのである。
 「現代アート」を名のるものは多いが、多くはこような時代的メッセージ性がない。「現代」の意味も分かってないようだ。ルネサンスも印象派も、それぞれの時代では「現代アート」だったのだ。
移ろい易い現実に迎合すること、これこそ本当の「ヴァーチャル・リアリティー」(仮想現実)に他ならない。筆者知るネットコミニュティーも、どうしようもなくヴァーチャルだった。無能無芸、挨拶と「評判記」しかなかった。 

 余人は知らず、筆者は、感動も信じられるものもないそのような「現象」に、いつまでも付き合っている暇はない。 
 先に佐伯のパリの例で述べたが、彼ら芸術家は本能的に、「現象」とは違う世界にこそ自分たち生き、向き合う価値が存することを看破した。この、先達が命を賭け、数多の犠牲を払いながらもの指し示した世界を信じる。
 筆者がこれから臨む旅は物理的には美術史を遡る旅行である。佐伯から始まり、印象派、コロー、セザンヌ、ゴッホに戻り、ルネッサンスからポンペイ壁画へと、その背景、土壌を探り、当然モティーフを取材する。
 美術史とは過去の体系ではない。普遍の体系である。それを究めればその分、美とか真理とかの「永遠」に近づくことが出来る。そこには国も時代もないし生も死もない。
 昨今の物騒な国際情勢、事故、健康の問題など不安定要素は常に付き纏う。万一のことがあって、それから得たものを作品にすることはできないかもしれない。しかし子供の頃から夢見た風景、先達が生涯賭けて求めた永遠の価値、時間を超越した、この世とあの世の境にあるような、ノスタルジックでオマージュに満ちたその情景、それを目に焼き付けることだけで満足だ。愛する我が家の猫達が元気でいることだけを望む。