Ψ筆者作「森を行く」 F30 油彩
イメージ 1

これも有名な詩である。
萩原朔太郎「旅情」          
フランスへ行きたしと思えどもフランスはあまりにも遠し
せめては 新しき背広をきて気ままなる旅に出でてみん
汽車が坂道をゆく時水色の窓によりかかりて
我ひとりうれしき事を思わん5月の朝のしののめ
うら若草の萌えいずるこころまかせに・・・ 
 この「フランスへ行きたし」と言う心情は、当時の芸術を志す青年たちに、はやり病のように巣くっていた。かほどに「フランス、パリ」は芸術文化のふるさと、精神の自由と創造のための憧憬世界だったのである。勿論中には当時有効な「箔付け」であった「洋行帰り」を目途とする胡散臭いものもあったが、多くが後先考えず、なけなしの銭を叩き、あらゆる犠牲を払い、正に「フランスへパリへと草木もなびく」の風情であった。
 後にチェンニーニの技法書を仏訳するほど、陸軍幼年学校時よりフランス語を学んでいた中村彝や「わだつみのこのいろみや」制作時「これはサロンでも通用する!」と自負し、パリ留学を夢見た青木繁もそうであったろうが、いずれも結核という「死に病」を得てそれを果たせなかったのはいかばかりか無念であったろう。
 ともかく佐伯は憧れのパリの地を踏んだ。一か月半にわたる海路、けなげにも遠来の伴をしたわずか二歳の愛娘弥智子に「ヤチ、ここがパリだよ、綺麗だろう!」とでも言ったかもしれない。しかしこの感激に満ちたであろうパリへの一歩は、佐伯自身のみならずそのヤチにとっても取り返しのつかない悲劇を生む第二次渡仏へと繋がるのである。言い換えるとそれは自らの生存や諸々の犠牲に優する至上の価値であった。
 ところで、先にもちょっと触れた佐伯の後輩荻須高徳に「ベルヴィル」と言う作品がある。ベルヴィルはメトロの駅名でもあり、パリ19区、モンマルトルのやや東、かのサンマルタン運河にも歩いて行けるところにある。筆者は、このベルヴィルの安宿に投宿したことがある。ある日、坂道に面した筆者の部屋の窓枠添いに引っ込んだ壁に老婦人が腰かけていた。「ファティゲ?(疲れた?)」と聞いたら「ファティゲ、ファティゲ」と答えた。後日偶然見たその荻須の作品は、正にその場所を描いたのではないかと思われるほど、窓枠に至るまでそっくりであった。同作は荻須の晩年に近い1970年の作であるが、この間30余年の月日が流れていることをしばし忘れていた。
 パリを歩くとこういう経験を何度もする。モンマルトルでは何気なく振り返った路地が、かのユトリロの「コタンの袋小路」そのままであったことにビックリした。佐伯が描いた場所を現在のその場所の写真と併掲させている画集があるが、誠にそのままであったり、少なくても構造部は変わりなかったりしている。レストランの椅子の形、リュクサンブールの公園の木の枝の形すら変わっていない。これらは実に100年余年を経過しているのである。
 勿論パリに限らずヨーロッパの古い街は、古いものを保存するという文化政策があり、高さ制限もあるが、名勝ともいえない街のディテールまでその文化政策が及ぶとは考えられない。少なくとも彼等には、生産性や機能性優先のため古いものをどんどんぶっ壊して得たGDPの数値を先進国の指標とするという価値観はないのである。     
こう考えると先の高村光太郎の詩の意味や、若い芸術家達がゾクゾクパリを目指すということ、筆者が初めて降りたったパリ東駅頭のショックの実体が見えてきそうだ。
 勿論これは本邦の芸術家ばかりではない。ゴッホはオランダ、モティリアニはイタリア、シャガールはロシア、ピカソはスペイン…彼らは何もルーブルを見に来たわけではない。芸術が育ち、保護される土壌、環境を花の香に吸い寄せられる蜂のように世界中から集まったのである。彼らの視点は、矮小な国家や民族の差異などの、後述する「現象」にはなく、それらを超越した、「芸術」という共通の形式を介した事の「本質」にあった。「彩管報国」の責めを負わされたフジタにとっても、それは恰好の逃げ場所でもあったと言える。
(つづく)