Ψ筆者作「裏町の階段」 F4 油彩

「佐伯祐三が米子夫人と二歳の長女弥智子を連れてパリに着いたのは、鬱々とした空の一月、今から56年前、1924年のことだった。」(「太陽」1980年刊)
上記刊行日付から既に36年経っているので、現時点からだと92年前ということになる。しかし筆者には、この約100年の年月の経過をそう言うものとして感ずることはできない。
それから遥か時を経て筆者も佐伯一家と同じように、鉄道で初めてパリを訪れることになる。パリ東駅を一歩出た途端の筆者の感慨を別箇所で述べたことがある。それは以下である。
「パリについては予め相当の情報を持っているつもりでいたが、一歩駅を出た瞬間、「これがあのパリか!」と思った。そして「参った! これはとてもかなわん!」と思った。その街の重み、文化の息吹、己の矮小さと未熟さ、すべてを一瞬にして感じさせられた。」
前記「太陽」中で、作家安岡章太郎は「佐伯の絵はパリに対する日本人佐伯の≪驚き≫の表現である」旨の、作家横光利一の見解の紹介を紹介している。また安岡自身も「日本画壇を震撼させたとすれば、…それは絵になったパリの情報のためではなかろうか」と解釈している。
「震撼」とは佐伯の絵が別格の新鮮さを持って受け入れられたということである。その安岡らの言う「驚き」や「情報」とは、パリと言う街の形相ではなく、そのエスプリ(精神性)と解釈すべきだろう。佐伯の「天才」とは、独自の造形性と暗鬱な色彩によりその「本質」をいきなり掴み得たというところにあるのではないか。パリを描いた画家は他にもいるが、佐伯の後輩荻須高徳以下、多くはその「美」の表象の描写で終わっている。その従来の日本画壇になかった表現性と造形性が「驚き」と映じたのである。フランス人ユトリロは、同じフランス人が気づかなかったことを気づかしたということでやはり「驚き」であった。佐伯は実は、通説に言う「このアカデミズム!」のヴラマンクより、そのユトリロや「主情派」のスター、ゴッホに触発されていた。
この「パリのエスプリ」について、以下の高村光太郎の詩にさらに顕著に表れる。
≪私はパリで大人になった。はじめて異性に触れたのもパリ。
はじめて魂の解放を得たのもパリ。パリは珍しくもないような顔をして
人類のどんな種族をもうけ入れる。思考のどんな系譜をも拒まない。
美のどんな異質をも枯らさない。良も不良も新も旧も低いも高いも、
凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。パリの魅力は人をつかむ。人はパリで息がつける。
近代はパリで起り、美はパリで醇熟し萌芽し、頭脳の新細胞はパリで生れる。フランスがフランスを越えて存在する。この底なしの世界の都の一隅にいて、私は時に国籍を忘れた。故郷は遠く小さくけちくさく、うるさい田舎のやうだつた。私はパリではじめて彫刻を悟り、詩の真実に開眼され、
そこの庶民の一人一人に文化のいはれをみてとつた。悲しい思で是非もなく、比べようもない落差を感じた。日本の事物国柄の一切をなつかしみながら否定した。≫
はじめて魂の解放を得たのもパリ。パリは珍しくもないような顔をして
人類のどんな種族をもうけ入れる。思考のどんな系譜をも拒まない。
美のどんな異質をも枯らさない。良も不良も新も旧も低いも高いも、
凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。パリの魅力は人をつかむ。人はパリで息がつける。
近代はパリで起り、美はパリで醇熟し萌芽し、頭脳の新細胞はパリで生れる。フランスがフランスを越えて存在する。この底なしの世界の都の一隅にいて、私は時に国籍を忘れた。故郷は遠く小さくけちくさく、うるさい田舎のやうだつた。私はパリではじめて彫刻を悟り、詩の真実に開眼され、
そこの庶民の一人一人に文化のいはれをみてとつた。悲しい思で是非もなく、比べようもない落差を感じた。日本の事物国柄の一切をなつかしみながら否定した。≫
この若き日の光太郎の感慨も本質を突いている。若い故に純粋であり、純粋故に本質を看破できた。当時の光太郎は父光雲などを通じて、この国の、文化的因習、悪しき伝統、権威主義等に激しく反発していた。しかし光太郎はその後「日本文学報国会詩部会」部長となり、「彩管報国」の文学版の戦争賛美の詩を書くなど、ひとたびはその芸術が「大政翼賛」の忌まわしい社会性に取り込まれる。しかしその後、「人我詩を読みて死に就かん」と自責し、国家褒賞を辞退し東北の山奥に隠遁し生涯を終える。
上記詩中太字部分に筆者は激しく共感した。それは、ルーブル等名勝ばかりを撫でるようなツアーではなく、少しの間でも滞在してみれば分かる。世界有数の観光都市でありながら、裏の表情は異質である。街にはベガー、ジプシー、売春婦、移民、大道芸人、よっぱらい、失業者…凡そ背広を着てネクタイしめた優等生ばかりが尊敬されるような、どこかの大都市には見られない人種が溢れている。高村が100年前に言ったことは、今も変わっていない。街が国が人がその生活が、文化が、価値観が長い時間をかけて醸成され、凝縮したものが、移ろう現象の底流で霊を帯びて滞留する。これがパリのエスプリなのだ。
佐伯はパリの、人ぞ知る名勝地をほとんど描いていない。店先、窓、扉、カフェの椅子、看板、壁、広告塔、剥げ落ちた広告文字、工場、公衆便所、名もない街角…その造形感覚は「日本の風景は絵にならない」と言わしめ、二度と帰らぬ旅に出る。
(つづく)