Ψ筆者作「赤い屋根の村」 特寸 油彩
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ところで、ある場所で「写真の登場によって写実主義絵画の意義はなくなった」というフレーズを見た。専門的な絵画の勉強をしてきた人とは思えなかったが、あんた絵画の意義を本当に判っているの?と聞きたいくらいだ。写真が出てきて助かったのは「お手配の人相書き」ぐらいだろう。
 こういう人にはあまり良い例ではないが、戦時日本の軍部の取った行動を説明した方が手っ取り早いだろう。報道・情宣部門に属していたのは新聞記者やカメラマンだけではない。数多の画家たちが「尉官待遇」で徴用されたのである。言うまでもなく事実情報を伝えるだけなら写真で十分である。しかし「国民精神総動員」のためにはどうしても、その忠君愛国、滅私奉公、一億玉砕の情緒性に訴える必要がある。軍部はこの絵画芸術の機能を悪用し、伝統的に国家に忠実な画家たちが、「彩管報国」のスローガンを以て応え、その「功績」で彼らは戦後美術界の中心的立場となったのである。しかしその動機はともかく、絵画に写真を超える情緒的力があることを認めたのは誤りではない。この、武骨な軍人さえ理解していることを、昨今の前述したような一団の人種は理解していない。
 写真を描くことに係る原則論はかくの通り。これらは、造形とまともに対峙し、絵画芸術の理想を求め、自己開発に努力を惜しまない多くの画家ならば当たり前に思うことであろう。
  ことはそれだけではない。先にも述べたが、3D、CG、PC、描画ソフト、スマホのアプリ等々、テクノロジ―の進化がもたらすヴァーチャル・リアリティーの世界は、メディアや商業主義の文化支配と相俟って隆盛を極めている。
 それが時代と言うものなら是非もないが、創造者が芸術の意義や原点を忘れ、視覚の驚き、流行りもの、享楽趣味、利便性、話題性などのポピュリズム、あるいは、形やスタイルから入って、中身がスカスカな「現代アートシーン」などに飲み込まれるとしたら、大量生産・大量消費の使い捨て文化として、時代とともに消え去るのは、先例にも明らかである。
 先に「芸術の意義や原点」と述べたが、現下の美術団体や市場が凡俗な社会性に苛まれているのは先の「日展事件」や「年鑑評価型市場体系」で明らかだし、画家個人の「ガレキ(画歴)の山」表示主義にも辟易する。
 「ウケ狙い」の実にふざけたものが多すぎる!もう少しじっくり腰を落ち着けて、芸術の本質や意義を考えたり、「ハッタリ」ではない、自分自身の人生の価値としての「自己開発」に努めてはいかがと思うが、所詮他者のこと、いずれにも避けて縁を持たなかったことはつくづく正解だったと思う。
 それより、これからは「嗚呼、この景色、これがこの世で見る最後かも知れない」と、個々の自然や街角と名残りを惜しんでキャンバスに遺しておく覚悟で臨まなければならない。
 人生の折に触れ現れる、どこか遠いところから響いてくるような、得体の知れない懐かしい光景、憧憬、イマジネーション…その正体を探す旅に出なければならない、そいう年齢にさしかかって来た。愛する猫達とも「水盃」してでも行く覚悟が必要。これだけが後ろ髪引く。

BGM