Ψ筆者作「上流の渡し」 F10 油彩
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   写真を見て描くということは、その限りでは、写真が捉えた事象の外部情報を転写するということであり、冒頭に述べた、「個」を介して事象そのものの「生命」を描くことではない。このことは人物画にも静物画にも共通していることである。実際にやってみれば分かるが、現物を見て描くことは写真を転写することより遥かに難しいことなのだ。前者には完成に至るまでの様々なプロセスにおいての造形的苦労がある。それを克服し、成功に至った場合、それが次の力になる。次々に課題が生まれ。停滞することなく自己の絵画世界が展開するのだ。
 一方後者は既に結論が出ている、「切り取られた結果」を転写するだけである。それは最初からそういう最も大事なものがスッポリ欠落した、「二次元平面上のヴィジュアル情報の別の二次元平面への転写作業」に他ならない。何の発展性もない。 
 念のために言うが、筆者は、写真を全面的に否定しているわけではない。
 例えばフェルメールの「窓際斜光構図は「カメラオブスキュア」という「針孔写真」をヒントにしている。コローの、光源を対象の向こう側に置き、逆光により風景を透かして見せるような手法や、あの詩情豊かな銀灰色のグラデーションなどは、ピンボケ写真からヒントを得ている。印象派の画家も写真に関心を寄せていた者は多い。おそらくダビンチなどの好奇心旺盛な画家も写真があったら利用していただろう。本邦西洋画の祖、浅井忠も写真から題材を得ている。
 しかし忘れていけない彼らの造形修行は半端ではない。その数十、数百倍の現物描写やデッサンをしている。その造形感覚あればこそ、「写真に描かされる」ことなく、自らの絵画世界として再構築できるのである。したがって、写真をコントロールできるものが、制作上の資料として、取材の効率上の問題として、写真を援用するのはその要件により是認される。
 言い換えれば、造形の基礎が出来ていないい者は「写真見て描く」ことすらできないのである。その意味では写真を見て描くのは「高等芸」と言える。ところがこの「高等芸」も限界がある。上手く転写出来たところでそれだけのことだからだ。
 これについては過去何度も触れているので既出文を援用する。
≪…(3D,CGなど)テクノロジーによる「視覚の驚き」という現下の世俗的、刹那的享楽趣味に、絵画も歩調をあわせたものとなる。昨今、「リアリズム専門美術館」が出来、「凄腕」を特集する雑誌もでた。それらは、確かに、造形修行の経験のない、そういう素人の視覚を驚かせるだけのものはあるだろう。しかし、縷々のべたような状況にある中、絵画側からそれに近づく必要性も必然性もは全くないのである。
 こうしたものと本来の絵画芸術の価値との識別ははっきさせておかねばならない。……中略…先に、クールベの絵「林檎と柘榴」について、描かれているモティーフや背景を写真に撮り、それをキャンバスに貼り付けたら、作品と同じものになるかと言えばそうではないと述べた。その「そうではない部分」に芸術の芸術たる所以がある。…中略…これに引換え、前述した「流行りものリアリズム」はどうか? 中央にモデルの美人を据え、それもその傾向の作品ではみんな同じモデルを使っているのではないかと思わせるような、美人だが個性のない、シリコン製の「ラブドール」のようなモデルにどこか思わせぶりな表情やポーズをさせ、周辺にそれらしい観葉食物や小物を配し、カーテン越しに明るい光が部屋に満ち…といった状況をそのまま原寸大の写真に撮り、キャンバスに貼りつけたものと、作品として完成したものととを並べた場合、ヴィジュアルな価値にどれほどの差があるだろうか?答えは簡単だ。ほとんどないといってよい!その多くが写真を元に描かれているので、その元の写真とその写真を忠実に転写したものを比較したところで元に戻るだけの意義に過ぎない。
 つまり、そこで「作品化」されたものは事象、事物の「表象」であり、その「外部情報」の転写に過ぎず、その限りでは芸術の要件を満たし得ない。つまりそれは、先に述べた、古典主義人物画やクールベや中村不折に繋がる、「造形の根源的なところから骨組み、肉付けされ、事象や物の存在の本質に迫る」ような、絵画芸術としてのリアリズムとは全く異質なものである。先に述べたような、精一杯のテクニックで「全部見せ」、これ見よがしの「視覚の驚き」に到達したヴァーチャル・リアリティ趣味とは、今や他のメディアにもっと凄いのもゴロゴロしており、殊更絵画に求められるものではないのである。…≫
(つづく)