Ψ筆者作「田園逆光」 F6 油彩

もう10年ぐらい前になるか、ある絵画関係のコミニュティーで、某者から写真を見て描くことの是非を問う投稿があった。従前からその某の、やたらに「プロだアマだ、売れる、売れない」などの凡俗に短絡した軽佻浮薄な発想にどこか胡散臭さを感じていたが、別に彼だけが相手というわけでもなし、流行っていたトッピクだったので思うところを書いた。
そもそも、何かにつけても、本人がそれでよいと確信するなら他者にお墨付きをもらうまでもなく、それをやればよい筈である。あるいは迷う暇があればさっさとイーゼルを抱えて戸外に飛び出せばよい。しかし某はそれをせず、件の投稿に及んだというのは、写真を見ながらしか描けないない、かつそのことへの否定的常識にたいする後ろめたさや忸怩たる思いの処理法として、そのための意見を求めたというより、頑迷にこだわる己が「スケジュール主義」への「追認」を求めたに過ぎない。つまり、投稿はポーズだけで、遠の昔に自分なりの結論は出ていたのである。
これに、「フランスの造形アカデミーでは写真を見ながら絵を描くことを教えている」などと大ウソを言って某に支持を与えた者がいた。この御仁は従前から、ことごとく人の言うことの反対を言うようなおかしな性格であったが、某はこれに「勇気」を得たらしく、以後、ただの在留資格に係る職業登録が「フランス国家から≪絵描きの資格≫を与えられた「大先生」となった。
当該某はその後も、自らが手の届く程度の安直で平易な世界にあって、他人が撮った写真や印刷物を含め、その転写作業を「絵画」と称し、他者には良き家庭人、善意無過失の常識的市民を装う一方、自らを認めない者には逆上し、モグリだカタリだ、日本で「食えている」、税金を払っている、そういう画家はゼロに等しいだとの悪口雑言を繰り返した。
元より「鰯の頭も信心」、墓場まで本人が信じる何を持って行っても正に個人の自由だが、真面目に絵を学びたいという人も沢山いるネットコミニュティーである。創造力のない、自らの言葉で自らの思想を語れない、他人の足を引っ張るだけの、「己が甲羅に合わせて穴を掘る蟹」のごとき御仁は他にも老若男女多数いたが、ネットがその匿名性故の、ただの自己満足やスローガン主義の受け皿となったら、それは今日見る政治的知恵足らずのごとき、ただのヴァーチャルな遊びの世界である。とりわけ、自らの低レベルにまで絵画芸術や画家を卑しめ貶める所業は、価値の希求と自らの「レゾンデートル」のために命を賭けた、筆者知る、古今東西数多の先達のためにも絶対許さない。因果応報あるべし!
言うまでもなく、「写真を見ながら絵を描くこと」など、国の如何に関わりなく、造形アカデミズムの精神、修業体系とは縁も所縁もない。あるとするなら、商業主義「アート」等の手練手管程度を教えるぐらいの所であろう。
造形の意義や目的を知り、その修業経験ある者が、話の前提、原則論としてこのようなバカ気たことを公然と持ち出す筈がない。彼らはその無知を曝け出したに他ならない。
ことは当たり前のことである。筆者は別稿で以下のようなことを書いた。
≪例えば自分の孫子(まごこ)が「絵を勉強したい」と言って来た時、花でも人の顔でも「自分の見た通り、自分の感じた通りのことを、下手でもなんでも良いから一生懸命描きなさい」と言うのが普通の人間だろう。その際「写真を上手に写しなさい」と言う人間がいたらよほどの「人格崩壊者」である。実はこのことこそがコドモから超ベテラン、ビギナーから専門家に至るまで凡そ絵画芸術の本質に係る「プリミティヴな原理」に他ならない。古今東西まともな造形の教育・修行機関で写真の転写作業をカリキュラムに入れているところなど一つもない。これは「創造の自由」などという次元の話ではない。そうして「写真を見て描くべきでない」というのはそういう造形の本質、あるべき姿について語っていることなのだ。≫
(つづく)