Ψ筆者作「昼寝」 F8 平滑地のフレスコ描画部分
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  ポンペイ壁画に関する書物は多くない。そこで使われている画法がヨーロッパ中に広がったり、その後の画家たちに受け継がれたという事実もほとんどなく、まさにポンペイとともに埋もれた「幻の画法」と言える。しかし1748年ポンペイ発掘後のそのことに関する議論は活発なものがあり、筆者もその一人だが、関心ある一部の者にとってポンペイという地はそのドラマティックな経緯もあり、憧憬とノスタルジーと謎に満ちた一度は訪れなければならない所と言える。ともかくそれは、フレスコ画と言う、それ自体「過去の画法」との脈絡を持たずして語られることはない。
 先ず、本邦フレスコ画に係る技法書は1979年と1998年にそれぞれ刊行されているが、その両方ともポンペイ壁画は、前稿で述べた、蜜蝋を焼いて磨くという「ポンペイ・アンコスティーク」説をとっている。ところがこれに否定的な説がある。1980年発刊のマックス・デルナ―著(改訂ハンス・ゲルト・ミューラー)の分厚い「絵画技術体系」の中にその記述がある。
≪このポンペイの壁画技術については様々に頭を悩まされて来た。エルンスト・ベルガ―はこの仕事を始めは蝋画(アンコスティーク)と見なしその輝きは石鹸などを添加することで得られたとした。A・Wカイムは純粋のフレスコであると保証し、この輝きは付加物を加えずに平滑にすることによって得られると論証した。…≫そして著者は樹脂絵具や蝋画は全く発見されなかった、人は容易に欺かれる、ポンペイに蝋はなかったなどとアンコスティークに否定的な言葉を並べている。
 また1975年刊画家ゲオルク・ムゥヒェ著の「フレスコ賛歌」では画家は≪ポンペイのフレスコの多くの人に歎賞されるあの鏡のような輝きはどのような造り方で達せられたのか、については劇しい論争の書がいくつか書かれた。長い間、純粋な石灰だけではあの光沢は出ない、蝋を使っているのだと主張されてきた。ところが画家が石灰をどのように扱うべきかを十分に知り、これと融和していれば真正フレスコでもあのは光沢は現れるのだ。≫と、これも蝋を否定しているようだ。因みにこの書の訳者沢柳大五郎は筆者が在籍していたところの主任教授だった人で専門はギリシア、ローマの古代美術。
 また、1993年刊クルト・ヴェールデ著「絵画技術全書」では前稿で述べた「ストゥッコルストロ(平滑処理)とアンコスティークを区分して仔細にその処方を述べているが、ポンペイに関しては明確な判断は見られない。
 等々上掲資料は概ね1980年~1990年あたりに刊行されたもので、各意見はそれより少し以前のものとなるが、いずれも発掘後直ぐではなく、一応の科学的分析ができる時代であるはずで、その科学技術の発達を考えるとやはり一番新しいものを当座の結論とすべきであろう。
 そこで2000年、「ポンペイ壁画展―2000年の眠りから蘇る古代ローマの美」と銘打った展覧会が本邦で行われたが、その図録でアンナマリア・チャラッロは以下ごとく述べている。≪ポンペイ壁画はテンペラ(筆者注:カゼインテンペラによるセッコ画と判断される)なのか、それともエンカウストゥム(アンコスティーク)、即ち顔料を蝋に溶かして描いた蜜蝋画なのか(この部分につき筆者は、それはブオノでありテンペラではない、蝋は使っているが溶かして描いているわけではない、と言う意味で両方とも誤りと判断するが)…中略…アゴスティーニは、ポンペイ壁画の技法に関するもっとも纏まった研究書を著している。その中で彼は、蝋は重なって塗られた絵具の下層部にも認められること、したがって、蝋が皮膜の役割を果たしていたことを述べている。この見解は正しいと思われる…≫と述べ、光沢の経緯は直接述べてないが、ポンペイに於ける蝋の存在を認めている。これは前述のデルナ―書とは対立する意見であるが、最も新しい見解となろう。
  最後に筆者の個人的見解となるが、折しも当稿作成後、NHKがポンペイの特集番組を放映していたが、ベスビオ火山が噴火したのが西暦76年、今から2000年近くも前である。長いこと火山灰に埋もれていたことがその保存にはけがの功名であったのは確かだろうが、蝋の光沢にしろ光沢有る平滑処理にしろ、2000年も前の物理的特質がそのまま残っていたというのは驚異である。しかも同放送によると大量の火山灰とともに火砕流もあったようで、逃げる間もなくそのままの形の遺体が発見されている。とするなら、火砕流は勿論、火山灰も相当熱かったと思われるし、火山性有毒ガスもあった。そんな中で蝋は溶けずにそのままの光沢を維持できるかだろうか?どうしても現物を見たくなる。
 ともかく筆者はせっせと蜜蝋やアイロン、トーチ等を揃え、ストゥッコルストロを目指しながらポンペイに行くことを考えているのである。