
Ψ筆者作「青いバラのまわりで」 F10 油彩
筆者は当≪技法・素材≫書庫において、「全素材踏破」と銘打ち、それに相当の年数を要したフレスコ、テンペラ等先達の技法の追体験の経過をアップした。これにより、各技法の楽しさも厄介さも可能性も問題点も難渋さも身を以って感ずることができたが、何より得たのは、サンピエトロ、システィーナ、ルーブル一、ウフィツィ、エルミタージュ…世界中にある、この世のものとは思えない、あの華麗で、圧倒的で、気の遠くなるような天才たちのメティエも、元をただせば、地道で、泥臭く、仔細な技法と厳格な修練と、ギルドや徒弟関係に基づく「管理造形」が土台にあったればこそのものであるという実感である。そして、ダヴィンチもミケランジェロもその試行錯誤の過程で大きな失敗もしているのである。
時代的背景もあり、チェンニーニがかの技法書で語っていたことは一見、絵画を手工業的メティエとして、画家を職人的として捉えているかのように見えるが、それだけだとこの書の半分の意義を読み取ったに過ぎないだろう。
彼は言う。「常に純金や良い顔料を使用せよ」と。そして、「粗末な仕事に得はない、たとえ君が金は貰えずとも、神と聖母とは君に霊の喜びと、身体の健康とを与えたもうであろう」。
この言葉は具体的には金の代わりに銀や錫メッキを使うことを戒めたものであるが、(筆者も銀箔を使いそれが黒変するという、チェンニーニの言った通りの失敗をしたことがあるが。)、それはそのまま創造者の精神の有り様を語っているかのようである。
さらに言う。≪最初に、パネル(板絵)を使ってデッサンの初歩を学ぶのに一年を要する。師の工房に寝起きして、顔料を砕くことから始めて、膠を煮ること、石膏を捏ねること、パネルの地塗り、肉付け、盛り上げ、磨くこと、金箔を置くこと、金地に粒点を施すまで、絵画に関するあらゆる製法、技法に精通するには六年を要する。 次いで、顔料を研究し、媒材を使って彩色し、装飾すること、豊かに波打つドラペリ-(衣装の襞)を金で表すこと、壁画に習熟することに、さらに六年を要する。その間、デッサンを常に心掛け、祭日平日の別なく、毎日毎日、デッサンを怠ってはいけない。こうして多大の修練を積むことによってこそ、天性も立派に結実するのである。これ以外には、いかなる道を君が選ぼうと完成は望めまい。親しく先生につかないで技法をマスタ―したと公言する者が大勢いるが、この言葉を真に受けてはいけない。私はこの書を手本として君に与えるが、もし君が日夜これだけに頼って、師とする誰かのもとで、親しく実行しない限りは、君は一芸に達することなく、優れた画家と席を列するほどの成功はおそらく期待できないだろう。≫
上記言葉を要約すれば修業は一生もの、先達の教えを学べ、広く学べ…これが細かな技法を通じてチェンニーニが伝えたかったことであろう。そして、それは、ルノワールの言う「仕事に生命を与える理想」の追求に他ならない。
本当の芸術的価値とは、創造、表現、造形行為それ自体の中にある。「デッサンからやり直せ!」とはしばしば先達から聞く言葉である。ごまかしは効かない。
形やスタイルから入って中身がスカスカな「アート」、権威主義やヒエラルキ―や因習に支配されて、その愚俗な醜態を顧みない美術団体、看板や勲章に額縁つけて売るハッタリ市場、商業主義やテクノロジーに迎合したポピュリズム、安直な写真や手練手管からの転写作業の自己満足…チェンニーニが生きていたらそういうものに関わって無駄な人生を送るな!と言うだろう。得た価値の質は結局は個人の人生に帰着することである。