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  Ψ筆者作「秘密の場所2」 F20 油彩
 チェンニーノ・チェンニーニが、筆者の認識では最古と言えるべき、体系的絵画の技法書を脱稿したのが1437年7月31日である。原書はイタリア語で、その後英訳、仏訳されヨーロッパ全域で紹介されることとなる。日本語訳は、ヴィクトール・モッテによって仏訳されたものを、かの中村彝が更に日本語に訳したものが最初である。なおこのヴィクトール・モッテは、後述する画家ルノワールの書簡の宛先アンリ・モッテの父親であり、新古典主義の巨匠アングルの弟子とされる。
 中村彝は兄の影響も有り、軍人を志し名古屋の陸軍幼年学校に入学するが、その際フランス語を学んだのでその素養があった。幼年学校も軍人の道もかの業病により頓挫するが、絵画制作は勿論のこと、病臥を縫っての翻訳は、その能力とともに驚嘆に値する。筆者も多少フランス語は齧ったが彝のレベルには程遠い。
 中村彝は当初自らの向学のためにこれに触れたようだが、その後出版の意思を持ったが、その志果たすことなく件の病により37年余の生涯を終える。これを「彝後援会」的性格の「中村彝会」が実現の労を取り。昭和39、同51年、中央公論美術出版により発刊された。しかし、そういう彝の体調のこともあり、彝が訳したのは半分弱で、あとは近代美術館の藤井久栄が残り半分と彝訳の補完などをした。
 さて、著者チェンニーニには、イタリア、トスカーナに生まれ、フィレンツェにおいて、アーニョロ・ガッディ(ジョットの弟子タッデオ・ガッディの息子)に師事、10年以上その下で修行した。そういうことからジョットの直系弟子を自任する前期ルネッサンスの画家である。
 即ちこの本は、フレスコ・テンペラなどの油彩前の素材と、新素材油彩が交錯し、諸々の試行錯誤が重成り合った、「素材史」上最も活気ある、ルネッサンス期のものということになる。これがその後のヨーロッパ全域に広がり、件の中村彝の興味を引き、現代においても、その黄金背景テンペラ等の技法などで一部ペダンティックなアカデミズム方面でのバイブル的存在となっているのである。
 さてこの彝訳の原稿冒頭に、先に述べたルノワールによる訳者の子アンリ・モッテ宛ての書簡が紹介されている。ここでルノワールは、チェンニーニのこの著作は単なる技法書ではなく歴史書であると述べている。ルノワールはこの書に、個々の具体的手練手管の指南としてのものより、それを通じて、手工業的メティエとしての絵画の対時代的意義とそれ故の芸術の在り処を認めているいるようだ。以下は彼の発言の要旨である。
≪…作品の全部を総て自分一個で作る故に、自分の仕事に自分の大部を注ぎ込み、感興をわかしてそれを完成するのである。打ち克つべき困難、示さんとする趣味は彼らの頭脳を覚醒し、努力の成功は彼等をして歓喜に満たしめる。これら工匠が常に見出した係る環境の要素、英知の興奮は今はもうなくなってしまった。機械主義と仕事の分割(分担)とは、工匠を単なる人夫にし、仕事の歓喜を殺してしまった。工場においては人は何ら頭脳を要せざる機械に繋がれ。悲しくも単調にして倦怠の外なき仕事を課せられている。…中略…最も巧妙なる手は、ただ思想に仕えることにのみ得られるのである。…中略…たとえ職業学校で職業的技巧に堪能な技術家を作り得たとしても、もしその仕事に生命を与える理想が彼らに無かったとしたら、彼等をしてそれ以上の何者にもすることはできないだろう。…≫ 流石にルノワール、チェンニーニの同著から実に読み取るべきことを言い当ててるようだ。
 別稿で筆者は、絵画制作の全工程を素材から作品完成まで1th~10thに分けた場合、「チューブ絵具を溶き油で溶いて筆に着け、市販のキャンバスに描く」という行為はその7th~8th辺りから始めるに過ぎないと述べたが、このチェンニーニを読めば、それ以上10thに近いかもしれないとすら感じる。
 同書では先ず、鉱物、植物からの顔料等の採取法や支持体や筆の作り方から述べている。しかしそれは、今日においては油彩は言うに及ばず、フレスコ、テンペラなどの古典画法においても、それらよりずっと進んだ画材は多く市販され手っ取り早く手に入り、必ずしも必要な知識ではないかも知れない。また翻訳文でもあり読みずらく、反芻して一度自分の言葉に置き換えないと理解しずらい。もとよりフレスコ・テンペラに無縁の者にとってはただ難解なだけであろう。
  先に述べた「読み取るべき実」とは別にに存するようだ。 
(つづく)