Ψ筆者作「青いバラと赤い星」 F8 フレスコブオノ(二日目)
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ところで現在も、大きな画材店では一般的な油彩、水彩等の画材の他、特別な素材が売られている。例えばカゼイン、蜜蝋、ダンマル樹脂、膠…、また、支持体の材料としては炭酸カルシウム類、硫酸カルシウム類(石膏類)、石粉類、麻布(生キャンバス)など。原料は、顔料は土や鉱物など、媒材は植物の種子や樹脂。カゼインは牛乳、蜜蝋は蜜蜂、膠は兎や鹿など動物から採り、テンペラの媒材は鶏卵である。変わったところではシェラックニスは昆虫の分泌物から採る。なお下地材作りに使う体質顔料、白亜は白亜紀の堆積した虫の死骸、胡粉は貝類から採り、いずれも卵の殻などと同じ上記の炭酸カルシウムに類する。 
 チェンニーノ・チェンニーニ、クルト・ヴェールデ、マックス・デルナー等の分厚い技法書があるが、これらにはここで筆者が書いていることの数百倍の素材と技法が書かれてあり、翻訳本の内容はやや読みずらいが、創造者が如何に数多の試行錯誤や発見を繰り返していたかが分かる。
 いずれにしろこれら太古の昔から使われていた原始的素材は、アクリル等合成樹脂素材やテクノロジカルな手練手管が跋扈している現在でも造形の原点にある。これは、人間の情緒性や感受性、美意識や創造力とその表現手段が太古の昔から変わっていないのと軌を一にしているようだ。つまり、時代の進化に関わりなく、絵画芸術の本質は変わらない。なぜなら人間の本質は宇宙の原理と同じく変わらないからである。造形性の変化・推移はその方法論の変化推移であり、論述美術史がその現象のみを追うならそれはその本質を語ったことにはならないと思うのである。
 少々場違いだが、思い出したことがある。それは、かの3.11、自然の「想定外」の猛威により原発が手に負えない状態になった。その時、関係者が知恵を絞って行ったのは、大きなバケツで海水を汲み上げそれをヘリコプタ―から撒くということだ。そのあまりの原始的な姿に、「技術先進国、科学立国」の他愛無さとか人間の傲慢さの象徴を感じたものである。あれが人間とか人生の一皮むいた姿なのである!
 絵画の価値の存否はあくまで個人(美術史的に特定されるか否かは問わない)の何たるかに帰し、その本質は手作りの温かみある、時空を超越した普遍性に貫かれたものと言うことである。言い換えれば、時代性とかポピュリズムとかテクノロジーとか何某かの社会性、そのメカニズムの裡に終始する芸術は、必ず時代とともに消え去るものと信じる。
 さて、本稿主題のフレスコとは繰り返すが人類が開発した最古の絵画技法である。驚くべきことは古代(原始も含め)の創造者がそのメカニズムを知っていたということであろう。仮に当初は知らずに偶然の所産としても、経験によりそれを知ることになったのは確かである。
 その原理を整理すると以下となる。
 先ず、その支持体の材料は石灰岩と砂である。石灰岩は古代から長い時間をかけて海底に堆積した生物の骨や殻が地殻変動により、陸地に現れたもので、成分は上記の炭酸カルシウムである。これを高温で焼くと炭酸ガスが放出され生石灰となる。これに水を加えると消石灰(水酸化カルシウム)となり、これに砂を混ぜればフレスコの基底材(漆喰、スタッコ)となる。フレスコ画はこのスタッコが濡れているうちに描画しなければならない。ここが最大の難関である。
 そしてそれは乾燥する過程で空気中の炭酸ガスを吸収する。つまり、元の石灰岩と同じものに戻ることになる。その水分を放出する過程で薄いガラス状の消石灰成分が表面に沁みだし描画層を覆い閉じ込めるのである。フレスコの色彩のフレッシュさ(これがフレスコの語源)と永続的安定性はこの一連のメカニズムによる。
(つづく)