Ψ筆者作「青いバラと赤い星」 F8 フレスコブオノ(一日目)
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絵画の起源をアルタミラやラスコ―の壁画まで遡ればBC20000年余前のものとなり、優に建築や彫刻のそれを超える。しかしその後のギリシア・ローマの壮大・華麗な建築や、黄金分割比などで完璧に理想化された彫刻の美に比し、素朴な平面造形の扱いが劣後されるのはやむを得ないところであった。そうした経緯ある中、その二次元表現メディアとしての絵画の草創期をどこに据えるかということは重要であり、例えば現在見受けられる「世界の美術」等の全集類や美術史の教本などでは通常それが、前ルネッサンスのジョットやシモーネ・マルティーニあたりの13世紀後半、14世紀頭辺りから始まり、それ以前は、建築物や宗教施設に付随した壁面とか装飾備品として、さらっと流しているかのごとき印象を覚える。
 ところが、そのルネッサンス前こそが、筆者も別稿で述べたが、「造形史・素材史」的には、絵画の本質とか源流とかを語るものの宝庫なのである。にも拘らず、それが十分に扱われなかったというのは、その芸術性がルネッサンス以降のように創造者個人の介在を前提とするものではなかったということもあるが、なによりその造形性・素材・技法の問題が、「論述美術史」の範疇外であり、その違った世界もカバーすることは実作を伴わない数多の論述美術家にとっては不可能であったということに尽きる。
 しかし少々極論すれば、美術史上の絵画芸術の始まりをルネッサンス辺りとしてしまったら、それは5、600年前の「つい最近のこと」に過ぎず、また、絵画制作の諸工程を1から10までの段階に分けた場合、然るべき時代の然るべき画家から始まった、チューヴ絵具を筆につけ、キャンバスに走らせるという作業は、いきなりその7,8辺りから始めるという程度のことであり、それをもって絵画芸術とか美術史を語れば、それはその三分の一にも満たない程度のものを語ったことにしかならないということになろう。
 事実を言えば、ルネッサンス前にはビザンチン美術の花、イコンがあった。これはテンペラ画が主である。それ以前の地下墓所(カタコンベ)には初期キリスト教美術の壁画があった。そしてそのテンペラ(広義の)と共に初期ルネッサンス辺りまで連綿と続いたのが、これも広義のフレスコ画である。広義と言う意味は、先のラスコー、アルタミラの壁画も、エジプトやギリシア、ローマの壁画も、ずっと後の、本邦高松塚古墳壁画も、方法論は同じと見てよいからである。
 そのフレスコ画で、独自の一時代を画し、かつ驚くべき経緯を持っているのがかの「ポンペイ壁画」である。この中心である「第二期」は実にルネッサンスより1500年余も前なのである。
 江戸時代末期から明治維新にかけ、本邦絵画が取り入れた西洋画法に、明暗法、パースペクティヴ、立体感等の「造形アカデミズム」があったが、これは西洋のルネッサンス等古典主義絵画に源流がある。ところがポンペイ壁画は、その1500年も前に、生活を反映した静物画や人物画のリアリズム、あるいはトランプルイユという中世の「だまし絵」画法なども取り入れていた。これがAD76年のベスビオス火山の大噴火で長い眠りにつき、それこそつい最近の1748年、その驚くべき造形性が掘り起こされたのである。言い換えれば、1700年もの間、ルネッサンス期辺りで語られるような造形アカデミズムや、それを超えるようなフレスコ画に因む諸技法がすっぽり抜け落ちたままの美術史があったと言える。
(つづく)