Ψ筆者作「明るい道」 F20 油彩
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前稿で論述美術家においても≪創造的≫であることを要すと書いた。これは市場も同じ。そうでなければただの「美術品取引ブローカー」に他なるまい。その創造的とは、自分の言葉で語り、自分の視点で独自の価値を探り、時に価値を発掘、紹介したりしながら芸術の価値体系の創造に自ら参画するということである。
 ところで「評論家」と言う言葉は時に傍観者的で、自ら行動しないで言いたいことだけを言う無責任さを揶揄するものとして使われる場合があるが、上記のような創造的な姿勢ならそういう立場で十分にその職分に適うものと言えるし、西洋では現に功績ある何人かはいる。
 これに対し既成の、評価の定まった価値について、安直にそれに乗り、その「ありがたみ」を繰り返しあげつらうだけで、世俗的価値体系の「提灯持ち」的行動しかとり得ていない人種がある。或る人がこういう人種のことを「評論家」ならぬ「評判家」と言ったが、言い得て妙!そういえば他の分野も含めてなんと評判家の多いこと。自分のことを言うのは感想ぐらい。感想など誰でも持つ。これにも用はない。
 ところで当ブログにおいて、筆者は最近いくつかの掘り出し物を骨董屋・リサイクル店で入手したと述べた。100年以上も前の額縁、150年前の本物のイギリス風景画、ハガキサイズの古典派風油彩人物画、そして今般以下のものを手に入れた。下記表示通りロートレックの模写で作者は分からない。
 まずこれは、画面の退色、縮み皺とその落剝、全体の汚れや劣化から見て相当古いものと見た。そして描写は転写の正確さからオリジナルを見ながらの並行模写ではなく、薄紙等のカルトンにオリジナルの印刷物を直接移しとってからキャンバスに転写したものと判断する。しかし運筆や色の塗り方から本来の絵画に相当の力量の有る人と見た。
 この作品の妙味もその構図である。左下に大きくスペースをとったソファとその上部との粗密のバランス、投げ出した足が有効なアクセントとなり、左足は対角線的に画面を横切る効果を覗かす。右端の人影も必要。それらでよりメリハリの利いた画面となっている。ロートレックのそうした造形感覚は彼の他の作品からも多く見受けられる。「ムーランルージュ」のドラマや身体的特徴だけで彼の名があるのでない。この模写の製作者は真摯にその造形性を「追体験」したかったのだろう。
 さて、縷々述べてきたように、絵画とは実作、論述ともに奥深く、学ぶことも多く、困難も多い。しかしいつの世も、真摯にその価値を追い求め、そのための努力や苦労を厭わない人たちは、やるべきことはちゃんとやっている。一方で美術界にも胡散臭い、愚俗な似非価値や安直で皮相な手練手管が蔓延っているが、自分自身にはごまかしはきかないものである。一度しかない人生、どちらに意義があるか答えは明らかだろう。
     Ψ作者不詳 ロートレック作「ムーラン通りのサロン 」模写 F25
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Ψトゥールズ・ロートレック作
「ムーラン通りのサロ
ン」オリジナル