Ψ筆者模写 青木繁作「海の幸」 油彩 F20

前項において筆者は、中原中也らに絡み「自我の二元的存在」とか「幽体離脱」とかを考察してみたが、この種のものを画家青木繁にも見る。先ず青木の大雑把な輪郭を既出拙文「日本洋画史逍遥」から援用。
≪ 青木ほどその人格、人生において精神の安定と異常、虚と実、運不運、プライドと劣等感、強さと脆さ、作品において出来不出来、好評と不評など、その振幅の大きな画家はそういないだろう。青木を「天才」と言う声はよく聞くが、東西美術史上の天才とは往々にして、上記のような「二律背反」の中にあって、緊張感ある作品を遺したと言う、その「乾坤一擲」故に語られたりするものだ。…中略…青木は、短い生涯、家族との確執、貧困、落選などの挫折、福田たねとの離別、放浪、病苦など不幸苦難が付き纏った。そうした苦しい刹那に友人としての坂本繁二郎の影は見られない。…中略… 筆者は青木、坂本間には評伝で語られているような親密さなどない、シビアなものであったと筆者は判断する。…中略…青木のたねに対する冷厳な行動も、その真の思いとは正反対のものであったと思われる。貧困に喘ぐ青木にとっては結婚も出産も望み得ないものであった。たねとの離別も青木の方の意思である。これは一部評伝では青木の責任回避、苦難からの逃亡と見られている。…以下略≫
この他青木は、かの「わだつみのいろこのみや」の勧業博覧会審査の不評に関し、当時の画壇の今日と変わらぬ胡散臭さを雑誌「方寸」でボロクソにこき下ろす。これも青木のプライド優先の、後先考えない性格の表れである。一部病蹟学では青木に生来の精神分裂的気質を指摘する向きもあるが、この点は当然筆者は否定する。ともかく、このこともあり、中央画壇へ復帰することなく、故郷近辺を放浪の末28歳の生涯を閉じる。
以下は青木の遺した辞世の一文である。
≪小生は彼の山のさみしき頂きより思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。≫
その生涯の波乱と余りに短い生涯に比し、穏やかで潔く、恨みつらみ、無念の表現はない。因みにかの時代の若い絵描き達にとって、渡欧しパリなどで暮らし、西洋絵画に直接触れ、それを学ぶことが一度しかない人生の最大の目標、憧れであった。(帰国すれば「洋行帰り」として箔がつくという本邦特有の「権威主義的」事情もあったが。)その様は、正に「パリへパリへと草木もなびく」と言う体であった。しかし青木や中村彝はそれが果たせなかった。ともに結核という業病のせいである。佐伯祐三は二度も果たしたが、その結核でパリに死すことになる。筆者は特に、青木はこの洋行することが出来なかったことに痛恨の思いあったと想像するが、その悔いの思いも最早その言葉にない。
(つづく)