Ψ筆者作「明るい通り」 SM
イメージ 1












 
 この「幽体離脱」のような存在の二元性は中也の他の詩にもある。
「ホラホラ、これが僕の骨…見ているのは僕?可笑しなことだ…」(「一つのメルヘン」)
 この舞台にあるのは自分の骨で、見ている自分は別の世界に存在する。中也自身も現実からポッと自分の輪郭を抜いてしまっているのである。
  かの「サーカス」も「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました…ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん…」、そして鰯が観客のサーカス小屋、これらが語る時空を中也は別の世界から眺めている。戦争も時代も人間も鰯も、等価値の「ゆあーん 」とした、サーカスのようなもの、中也はこれを酒でも飲みながらあっけらかんと突き放して観る。どうせ自分はそこにいないのだ。
 筆者の学生時代、中也とともに文学青年のバイブルのような存在だったのがアルチュール・ランボーである彼の「永遠」と言う詩は中也も訳しているが、趣の違う訳文が数あるので原文を添える。
   L'ÉTERNITÉ   Arthur Rimbaud 
Elle est retrouvée,  
Quoi? ― L'Éternité. 
C'est la mer allée
Avec le soleil.
  要は海と太陽の溶け合うような情景から「永遠」を見つけた、ということである。ランボ―はさらに「出発」において、現実を「見飽きた、聞き飽きた。仇な幻」とし、その現実から創造のモティーフを探すことすら放棄し、詩作さえやめ商人となって砂漠に消える。
 中也は文也の死後数年後20代で死ぬ。ランボ―は30代で死ぬが20代で詩作を捨てる。いずれにしろ彼らは現実の世界では「不在の人」だった。では彼らは何処に存在していたのか?
 先に「無垢で優しい、得体の知れないエーテルで満たされた透明な世界」と述べた。そこはどんな過酷な現実も猛烈な悲嘆も突き抜けた世界。生も死も、喜びも悲しみもない、期待も裏切りも、過去も未来も、国境もみんな無い。勿論人間社会の諸々のウソや、「愛」とか「希望」とかの胡散臭い約束事もない。「天上天下唯我独尊」の自我が、宇宙の原理や人間の真実、天の摂理、美などの普遍的価値と純粋に向き合える世界、イメージやノスタルジーを自由に、際限なく展開させることができる、生と死の境目にある世界と言っておこう。これをランボ―からは「やっと見つけた永遠」、中也からは、永遠の時間と悠久の宇宙から切り取られた、「この世の光に照らされた」一瞬の時空が想起される。
(つづく)
Ψ筆者作「夏の運河」F0 油彩
イメージ 2