Ψ筆者作「静かなる場所」 F12 油彩
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「ほんにお前もあの頃はこの世の光の只中に立って眺めていたっけが…」
これは詩人中原中也が、幼くして死んだ愛息文也を詠んだ「動物園」と言う慟哭の詩である。中也はその文也の死後神経衰弱となり自らの死も早めることになるが、それほど愛児の死は衝撃であった。かつて存在していた主体の、今はその輪郭だけがポッと抜かれた舞台の、その不在感と底知れぬ寂寥が漂う情景を想起させる。
 しかし筆者はこの詩にハタと気づかされることがあった。そう、我々の人生とは、永遠の時間と悠久の宇宙から切り取られた、「この世の光に照らされた」ほんの一瞬の時空なのであると。
 改めてそう思うのは、この詩から、一たびは痛切な、悲哀、喪失感を感ずるが、その突き抜けた先の「この世の光」に照らされた空間に、無垢で優しい、得体の知れないエーテルで満たされた透明な世界を感じ、そこある種の救いのようなものすら感じるからである。
 中也の現実は、女をとられ息子に死なれ、人間社会に参加できず、酒を飲んでは絡む所業は文学仲間からさえも嫌われていた。つまり、彼にとって、実社会もそれを構成する人間たちもロクでもないものだったのである。しかし中也には、詩という、自我の創造を通じて生きれる世界がある。だからはそのロクでもない世界に存在し、ロクでもない人間たちに付き合う必要はない。
 そうした現実からもたらされたものばかりではない。中也の人生には払拭しえない深い悲哀が満ちていた。それは生来の鋭敏な精神ゆえに、人間や事象のボトム(底)と先行きを見知ってしまったことに他ならない。もう現実の中では、一切の認識や思考で結論を得ることはできない。現実とは所詮脆弱な虚構であり、自我や愛する者の消滅、その別離がだけが絶対で不可避の宿命なら、あらかじめ自我を別の透明な空間に存在させておけばよいではないか。これは現実逃避ではない。短い人生を悔いなく燃焼させる方途である。
 この絶対の失望ゆえに別世界で中也は生きられるのである。
(つづく)