Ψ筆者作「夏の道」 F6 油彩

ともかく古典派においては、印象派のような、色彩を散らすということはせず、モティーフはモティーフ、背景は背景、固有色で塗り分けたのである。またレンブラントなど特定画家を除き、マティエールそのものの効果はほとんど無視されたと言ってよい。にもかかわらず、どうしてあのような単調でも鬱陶しくもない、美しい画面ができるのか?
それは古典派絵画が色量加重の少ない、薄塗の塗り重ねでできているということ、及びかの造形アカデミズムの鍛錬により、モティーフを「しっかり描く」ということが出来ているからに他ならない。
因みに最近この「しっかり描いた」絵と言うものにあまりお目にかかれない。しっかり描くというのは、じっくり腰を据えて造形の精髄、本道に対峙するということ、「敵は百万ありと言えど我行かん」といった本当の個性たる精神性を有するということと筆者は考える。「絵作り」は達者だがどこか空々しい、ワンパターンの現状維持、「野心」は見え見えだが地に足がついてない、団体や市場性などの俗臭紛紛…、こういう絵には昔からしばしば耳にした「デッサンからやり直せ!」と言う言葉を思い出す。
筆者にとってはその色彩、銀灰色、逆光による透かし効果などコロー固有の技術がもたらす詩情性と、古典派絵画全体に見られる、色量加重は希薄だが「しっかり描けている」というリアリズムの奥義が現下において最も大きな関心事なのである。つまり、希求すべきは古典派系絵画の造形性であり、印象派以降のそれはブーダン、シスレーなどの低地平構図は魅力だが、そのルーツはオランダ風景画でもあるし、印象派的な「ベタ塗り」の塗り重ねのみではなかなか対応しきれないものがある。
筆者にとってはその色彩、銀灰色、逆光による透かし効果などコロー固有の技術がもたらす詩情性と、古典派絵画全体に見られる、色量加重は希薄だが「しっかり描けている」というリアリズムの奥義が現下において最も大きな関心事なのである。つまり、希求すべきは古典派系絵画の造形性であり、印象派以降のそれはブーダン、シスレーなどの低地平構図は魅力だが、そのルーツはオランダ風景画でもあるし、印象派的な「ベタ塗り」の塗り重ねのみではなかなか対応しきれないものがある。
そういうこともあり、古典派風景画をできるだけ多く観る機会を持ちたいと思うのであるが、ルーブルなどにでも行かない限り、本邦にはほとんどないそれにお目にかかれない。これは本邦美術史の経緯から説明できるのであるが当稿の趣旨に逸れるので割愛する。
ところが今般、その系列にある本物の古典派風景画の小品を手に入れることができた。作品の内容そのものはそれほどのものではないが、絵作りも額縁も十分に古典派の香気が漂ってて、他人の作品は買ったこともないし、欲しいとも思わない身であるが、件の事情もあり、額縁だけでもその価値ありと判断し、価格もさほどでなかったので手早く手に入れた。
売られていたのはリサイクルを主とする近郊の店だったので比較的廉価な再販価格だったが、都心のギャラリーや骨董商だったら0が一つ多い値がついていても不思議ではないだろう。他の作品はそれの数倍の値がつけられていたが、筆者にとっては幸運だったが、その作品については店の担当者に誤評価ありと見る。
添えられていた鑑定書では、1870年、イギリスで制作されたものとあるから150年前のものということになるが、筆者も額縁から作品の裏面の体裁まで仔細に見たが、一部補助金具を除きその古さに疑念は感じなかった。
ただ古典派絵画の古さの味は先に述べた色使いや平滑な画面だけではない。絵具そのものの経年による変色と塗られたニス類の「ヤニ化」にもある。実はこれを意図とした古典派仕様のニスもあり、筆者はこれも試してみようと思う。
以下がその作品である。
Ψ W.T.Williams作「Lake Landscape」 1870年
