Ψ筆者作「赤い屋根の村1」 F30 油彩

前記発想は、「自分の都合のいいように解釈する、都合の悪いことは深く考えない、批判は大声で何某かのスローガンを叫ぶことで吹き消す」、そういうことである。先に述べた「改憲」の意義が「自主独立」なのか「対米追従」なのか、「鬼畜米英」とは一朝にして「アメリカ様様」になり得るものだったのか、「欧米列強からアジアを解放する正義の戦争」なら御本尊の「日本」はいつアメリカから「解放」されるのか、戦前と戦後では背景が180度違うにもかかわらず同じ「日本・日本人精神論」が通用すると思うのか、アングロサクソンの侵略、支配には黙するが、なぜ中国等には過敏に反応するのか(自分たちの所業は棚に上げて)、「大量破壊兵器」など存在しなかった大義名分のない第二次イラク攻撃を支持した責任はどうなっているのか、「原発銀座」の北陸の原発を攻撃されたらどうするのか、横須賀を母港としているアメリカの原子力空母が大津波で打ち上げられたらどうするのか、「抑止論」と「安倍流積極的平和主義」は矛盾しないのか、30年以内に70%の確率で来ると言われる「南海等トラフ」、「首都直下型」の中でのオリンピック招致は「一か八か」ではないのか、これらは総て支離滅裂、矛盾、何一つ説明できていない。実はもう一つ、これらにはその底流にホンネとタテマエの齟齬があるからだと筆者は考える。
以下既出拙文を援用。
≪かの国民的作家、当代のインテリ階層を代表するような夏目漱石は以下の言葉を残している。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
これらの言葉のどこに解釈論者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。≫
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
これらの言葉のどこに解釈論者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。≫
即ち、反中国=漢民族、反朝鮮民族感情である。これは民族的差別、偏見、レイシズムそのものである。右翼・保守系政治家、「文化人」、歴史修正主義者の多くにこの「趣味的」感情がある。だから親米は抵抗ないが、親中韓はあり得ない。これを論理的に説明できない知恵足らずどもは、それに反対する者を「反日」、「売国奴」、「非国民」とのレッテルを貼る以外にない。昨今の大手御用マスコミの論調は酷いものがある。政治的論調を超えて他愛ない民族的優劣を量り、差別や偏見を助長するものばかりである。マスコミの使命などかなぐり捨て、もはや「政権党機関紙」に成り下がった新聞すらある。
筆者は画材を買いに新宿に行く。歌舞伎町を歩くと日本語より中国語やハングル語の方が多いくらいに聞こえる。隣の新大久保のコーリャンタウンには多くの若い日本人男女が訪れる。中国人観光客用の観光バスはそこらじゅうに停車している。中国大陸や朝鮮半島も同様だろう。少なくても民間レベルでは互いに仲良く、抵抗なく交流し、何の軋轢もない世界がある。先ずこちらの方を大事にすることを考えるべきであろう。息巻いているのは当事国の、少数の然るべき人種のみである。
これが、「己が甲羅に合わせて穴を掘る蟹」ような、偏狭で一面的視点しか持ちえない政治主義や件の「趣味的」レイシズムなどで、あらぬ方向に持って行かれたらたまったものではない。
もう一度言う。「中国警戒論」や「安倍流積極的平和主義」とは結局はアメリカの世界戦略に迎合し隷属を強め、その補完強化を狙うもの。
安倍内閣、改憲、戦争法案、歴史修正主義者、御用マスコミ、ちょうちん持ち文化人、それに安易に誘導操作される知恵足らず、全部まとめて歴史のくずかごに!
戦後70年、自らのメティエに関連しもう一つ言っておきたいことがある。この国の美術界はかつて「彩管報国」という、世界の美術史上例のない、恥ずべき、芸術・文化の国家支配に屈した歴史がある。現下の「戦争法案」に対しては学者、言論人、文化人から学生、市民、各界各方面から大きな反対の声が上がっている。しかし美術界からは有志といえどその主体的、積極的動きはない。これは、本邦美術界の世界に稀な「保守性」による。先の「日展問題」はその象徴である。それは、芸術の団体主義、国家褒賞、権威主義、ヒエラルキー等日本的因習、悪しき伝統への保守的歪が噴出したものである。個人レベルでも美術家連盟などの組織もあるが、創造者個人に芸術・文化に関わるものとしての「レゾンデートル」とか、状況と向き合う明確な思想とかがなければ、どんなキンキラキンの「画歴」を並べ立てても、ただの「ガレキの山」でしかでないだろう。
彩管報国
以下既出拙文援用(一部編集)
≪… それはまず1938年東京朝日新聞主催の「戦争美術展」に始まる。これは洋画は日清・日露戦争を主題とする戦争画、日本画は神道、武士道をテーマの歴史画が中心であったが、「戦争」を「美術展」の冠詞とするなど今日では考えられないような、当代の人心の戦争に対する「免疫性」を物語るものである。同じ頃「大日本従軍画家協会」が設立される。趣旨は従軍画家達の大同団結とそれによる「国防宣伝、宣撫工作、慰恤等に絵画を以て尽力する」ことであり、陸軍省後援で役員には官展側の藤島武二、在野(二科)側の石井柏亭等が就き、まさに先に述べた国家による一元的美術界支配を意図した「松田改組」の成果を語るものであった。
翌年それは陸軍の外郭団体としての「陸軍美術協会」となり、会長は松井石根陸軍大将、副会長は藤島武二(藤島死去後は藤田嗣治)、その後会則に「陸軍省情報部指導ノ下ニ陸軍ガ必要トスル美術ニ関スル総テノ問題ニ即応之ヲ処理シ以テ作戦目的遂行ニ協力スル」と、明確に戦争協力をうたい、名実伴に「軍芸一体」にものとなる。
以後毎年、否年何回も、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「海洋美術展」(海軍)、「航空美術展」、「紀元二千六百年美術展」、「決戦美術展」など、名こそ違え戦争、軍事絡みの美術展がいくつも開かれ、それらは通常の美術団体展を遥かに凌ぐ観覧者を集めるのである。
こうした一連の動きには先の藤島、藤田の他、中村研一、小磯良平、宮本三郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、伊原卯三郎、山田新一(佐伯祐三と関係が深い。後の光風会理事)等、多くその後の日本画壇や美術団体の中心的存在となるの画家達の名が見える。
そして戦局緊張の度を加えた1943年、「大政翼賛会」文化部指導により「日本美術報国会」が結成され「彩管報国」は一層明確となる。この会長は横山大観であり、彼が「紀元二千六百年奉祝美術展に出品したは「日出處日本」は、「神洲の霊峰を墨一色によって表はし、これに真紅の旭日を配した。これは筆技を超えた大観の優作であって、その奉祝の誠意を吐露した作品である」との評価を受けたが、それが時局を背景とした国威発揚の意義の評価であり、彼もそれを意図したものであることは疑いない。…≫
先に述べたように、こういう状況で「活躍」した画家たちが戦後において日本美術界をリードする、「ボス連」となったのである。
ともかく、個々の創造者、表現者の自由で純粋であるべき「自己実現」の場である芸術が、国家に捧げられ、利用された、この事実は、どのような観点からも忌まわしい、否定すべきものである。
≪… それはまず1938年東京朝日新聞主催の「戦争美術展」に始まる。これは洋画は日清・日露戦争を主題とする戦争画、日本画は神道、武士道をテーマの歴史画が中心であったが、「戦争」を「美術展」の冠詞とするなど今日では考えられないような、当代の人心の戦争に対する「免疫性」を物語るものである。同じ頃「大日本従軍画家協会」が設立される。趣旨は従軍画家達の大同団結とそれによる「国防宣伝、宣撫工作、慰恤等に絵画を以て尽力する」ことであり、陸軍省後援で役員には官展側の藤島武二、在野(二科)側の石井柏亭等が就き、まさに先に述べた国家による一元的美術界支配を意図した「松田改組」の成果を語るものであった。
翌年それは陸軍の外郭団体としての「陸軍美術協会」となり、会長は松井石根陸軍大将、副会長は藤島武二(藤島死去後は藤田嗣治)、その後会則に「陸軍省情報部指導ノ下ニ陸軍ガ必要トスル美術ニ関スル総テノ問題ニ即応之ヲ処理シ以テ作戦目的遂行ニ協力スル」と、明確に戦争協力をうたい、名実伴に「軍芸一体」にものとなる。
以後毎年、否年何回も、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「海洋美術展」(海軍)、「航空美術展」、「紀元二千六百年美術展」、「決戦美術展」など、名こそ違え戦争、軍事絡みの美術展がいくつも開かれ、それらは通常の美術団体展を遥かに凌ぐ観覧者を集めるのである。
こうした一連の動きには先の藤島、藤田の他、中村研一、小磯良平、宮本三郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、伊原卯三郎、山田新一(佐伯祐三と関係が深い。後の光風会理事)等、多くその後の日本画壇や美術団体の中心的存在となるの画家達の名が見える。
そして戦局緊張の度を加えた1943年、「大政翼賛会」文化部指導により「日本美術報国会」が結成され「彩管報国」は一層明確となる。この会長は横山大観であり、彼が「紀元二千六百年奉祝美術展に出品したは「日出處日本」は、「神洲の霊峰を墨一色によって表はし、これに真紅の旭日を配した。これは筆技を超えた大観の優作であって、その奉祝の誠意を吐露した作品である」との評価を受けたが、それが時局を背景とした国威発揚の意義の評価であり、彼もそれを意図したものであることは疑いない。…≫
先に述べたように、こういう状況で「活躍」した画家たちが戦後において日本美術界をリードする、「ボス連」となったのである。
ともかく、個々の創造者、表現者の自由で純粋であるべき「自己実現」の場である芸術が、国家に捧げられ、利用された、この事実は、どのような観点からも忌まわしい、否定すべきものである。
(この稿終わり)