Ψ上 入手した骨董額縁
 下 筆者模写佐伯祐三作「ガス塔と広告」 P12 油彩
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 美術館の絵の額装は基本的にガラスやアクリル板はつけない。これは絵が、照明の反射や人影などで遮られたり、マティエールなどの絵の味わいが直に感じられないということを避けるために当然なのだが、一般家庭向きの市販の額縁は、湿気やほこり、空気中のガスの影響、その他もろもろのリスクから絵を保護するため、ガラスやアクリル板などがつけられている。
 もう一つの理由は、それらを入れると額縁が高級に見え、絵も栄えるので高額で絵を販売するのに都合がよく、さらにワンランク上の市場性のために絵をうやうやしく黄色いっぽい布で包み、さらにもっともらしい箱に収めるといったことが常態となっている。
 いずれにしろはっきりしていることは、それらの一切が作品そのものの価値とは本来無縁であるということなのである。したがって、「看板と勲章」に額縁をつけて売るような「ハッタリ市場」では「芸術」は存在しないといってよい。
 そういうこともあり、筆者個人は最近額縁には別のこだわりを持つようになった。先ず申し訳ないが市販の美麗かつ高級な額縁にはあまり心動かない。アクリル、ガラスはいらない。そのかわりフレーム自体がしっかりして味わいがあること。勿論ルーブルクラスのそれ自体が芸術品のような、精緻で華麗なものなどそうはお目にかかれないし、入手もできない。そこで興味を持つのが年代物、手作りやワイルド感のあるもの、などである。最近そういう目で骨董店やリサイクル屋など見ているが、傷物の中古品は数多くあるが、これは!というものはそうない。
 ところがそれに近いものを発見した。少なくとも今までの額縁で一番美しいと感じている。相当な古物で傷、落剝、破損はひどく、普通なら廃棄されても不思議ではないものだった。しかも用途は鏡の枠として使われていたので重たい鏡がついていた。
  そういう本来の機能として使われていない悲劇もあるが、時間が煮詰められたような、その古色蒼然とした危うい美しさに惹かれ、二束三文で手に入れた。修復のノウハウには多少自信はあったが、なまじ本格的な修復はせず、最小限の手当にとどめ、むしろその破調を生かそうと思った。
 額の裏に以下様な裏書が貼ってあった。
≪商号 アカトリヰ(※筆写注「赤鳥居」)庄司額縁製造・販売廛(同「店」)  東京下谷御徒町二丁目 御徒町電車停留場際≫
先ず「商号」は右からの横書き、「ヰ」や「廛」などの旧字も見える。なにより「下谷」とは1878年(明治11年)に制定設置された「下谷区」のことで、これは1947年3月15日、浅草区と合併され台東区となるまで続いていた区であるが、1911年(明治44年)その「下谷○○町」などと使われていた、町名の冠称は廃止となった。
 ところが裏書には「東京下谷御徒町二丁目」とある。つまりこの額は、冠称が廃止となる1911年以前に作られたものということになる。100年以上も前のものだ!
 さて、この額に入れる絵を探したがP12という特寸でもあり、在庫も少なく合うものもない。一つだけあった。それは「哀愁の巴里」出版の際、筆者が佐伯祐三の手製キャンバスを再現し、それに佐伯の絵を模写したP12である。
 当然これも、佐伯が使った素材そのもの、「麻布、白亜、スタンドオイル、膠、マルセル石鹸…」等であり、この額の古さには適うものであり、これは勿怪の幸いであった。
 入れてみて思った。佐伯がこの作品を描いたのが1927年頃、この額はそれより古く、傷みは激しい。模写された佐伯の絵は当然新しいし、傷みもない。しかし今この額に合っている。100年近く前「画壇を震撼させた」佐伯の絵は新しかったはずだが、古くもあった。つまり時間を超越する価値があった。これも佐伯の偉大さではないかと。