Ψ筆者作「虹色の街2」 F30 油彩

再掲≪本邦「芸術・文化」の土壌≫(改題)
本邦の今日に至るまでの美術界を見るにつけ、そもそも絵画とは何か?芸術とは何か?を考えさせられる。その答えは西洋美術史上の先達を見れば簡単に見出されるようだ。その答えがあまり当たり前すぎる故、本邦のかかる事情が一層異常に思えるほどだ。
時代的公平を期し近代ヨーロッパの先達を例に挙げる。もっともポピュラーなところでマネ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ユトリロ、モデイニアニ、ピカソ…etc.この画家達には共通したものがある。それは言わば、≪我が頭上には白日のみぞ輝ける、我足は大地にのみぞ支えらる≫、即ち「上方は何の権威も戴かない、下方は何からも支えられない」自らのみが存在し、その座標の中から自ら信じる絵画的価値を只管希求するのみ、その創造行為は、自ら問い自ら出す、自我の何たるかの回答以外の何ものでもなかったということである。彼らには「作為的個性」は必要ではなかった。「百万ありといえども我行かん」という精神の有り様が既に強固な個性であったからである。
芸術とは「自我」による純粋で新しい価値の創造である。その価値が何かに代位されたり、既成の価値の一部であったりすればその創造は存在する意味がない。代位するものや既存の価値を見たほうが早い。佐伯は友人の作家芹沢光治良に「自分の絵は純粋か?」と尋ねたことがある。「純粋な創造」は佐伯の当然のテーマだった。そのため佐伯はヴラマンク、ユトリロ、ゴッホを通過し「自我」に達する必要があった。
翻って本邦美術界はどうか?その質の違い、落差を感じざるを得ない。先ず団体展中心主義で「個」が見当たらない。その個とは単なる作品の内容のみならず思想、価値観などパーソナルな全人格を含む。本邦多くの創造行為は個人の行為ではなく「運動」である。その運動も理念ではなく、その団体のシステムやメカニズムをこなす俗な「社会性」に他ならない。団体最上部に大家、ボス連を据える、次に委員、会員、準会員、会友、平出品者などの序列がある。最上部の上は諸々の国家褒賞制度があり、その栄誉のため書くにも憚るような「別の運動」が行われる。内覧会とか下見会、内審査とか言われるものは、出品者は自らの顔や名前の売り込み、上位の者は自らの「子分」を一人でも増やす恰好の契機となる。これが「情実選考」の温床である。
昔筆者はある画廊が主催する全国公募の風景画コンクールに出品したことがある。全国公募ということもあり入選率は一割程度、結果は四席だったが、賞金の出る三席まですべて複数の団体に属する審査員達の弟子筋、一席は某審査員の息子だった。五席や平入選にも数多くの関係団体出品者が含まれていた。先の三者はその後当該各団体の幹部筋になったようだ。市井の公募展でもこの有様である。
筆者がある画家にこうした状況に関し「日本では絵以外に別の才能が必要だから」と言ったら「まぁ、日本人のやることですから…しょうがない」と言った。この場合の「日本人のやること」とは「日本人の好きなこと」、あるいは手っ取り早い価値体系に置き換えられる。確かに美術界の、国家褒賞を頂点とする権威主義、ヒエラルキ―、因習、伝統は、他の文化にも見られる、世襲制度、家元制度、情実主義、地縁血縁、門閥学閥等はなどと同じ「国民性」において繋がっている。しかし、冗談ではない!「公募」と称し、何も知らない一般出品者から出品料だけを取り、壁面が特定個人や傘下の団体で占められるとしたらこれは刑法の詐欺罪に当たるのである。(因みにこう言う事なかれ主義のどっちつかずの保守的人間とはもう付き合わないが)
土壌がかく様であれば画家もそれに応じたものとなる。以下既出拙文援用 。(一部編集)
≪そうした構造が中心の土壌の中で個々の画家がその立場を主張するにはどこかの会派に属し、自分がいかにエライ画家であるかを示すような「曰く因縁故事来歴」を作品に添付する、すなわちこれでもかこれでもかとあらん限りの画歴(筆者はこれを「ガレキの山」と言っているが^^)を添えるというシステムが常態化され、画商もそういう付加価値で値を吊り上げ、買う方も何某かの「有難み」を買い、画家はいっそうのステータスやアドヴァンテージを求め、俗物化し、そういうメカニズムの繰り返しのうちに、芸術が「集団的メカニズム」の中で展開するという、世界に類をみない、金ピカの看板と勲章に額縁つけて売るような、歪んだ美術界・市場を形成するに至ったと言える。≫
前述した西洋美術の有り様からすれば、しばしばその団体特有の多くの似たような絵、師匠筋の傾向を追ったような絵など見られるが、その地位保全に必要なのかもしれないが、これらには絵の内容以前に創造者としての「良心」を疑う。
汚職、談合、裏取引、闇カルテル、隠し金、偽装工作、不当表示、やらせ等々…諸々の人間社会の不正はいつか露見し、実行者責任は勿論、管理者責任、受益者責任は相当の追及が為され、「治外法権」は許されない。こうしたことが「芸術」の名で行われてるとしたらこれは国家的恥辱、文化的三等国の何ものでもない。
(書庫「日本洋画史逍遥」より)
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