
Ψ筆者作「裏町の階段」F3 油彩
Ψ筆者作「Je suis fatigué2」 SM 油彩

≪再掲「注文の多い料理店」考察≫
高村光太郎が岩手に隠遁した経緯には宮沢賢治の弟の伝手があった。その宮沢賢治からイメージされるのは、岩手、花巻という土地柄、農業技師という職業などからくる「自然」との生きた関わり、仏教へ深く関わったことにも因するであろう、「雨ニモマケズ」に現れているヒューマニズム、平和・人道主義、それと「イーハトーヴ」、「イギリス海岸」、「銀河鉄道の夜」の登場人物名などに見られる、国籍不明のイメージワールドなどである。また、擬音、韻律、方言等 を駆使した独自の文体は、当時の鈴木三重吉の「赤い鳥」などの児童文学とは異質のものとされる。因みに「注文の多い料理店」は賢治の自費出版的なもので、「赤い鳥」には広告だけ出されたがこれは、「赤い鳥」に挿絵を描いていた深沢省三の口利きがによるものとされる。なお、この深沢省三とは、佐伯祐三と美校で同窓、佐伯が美校時代に初めて作った絵画グループ「薔薇門社」の同人で、ともに野球をやっていたことから佐伯を「赤い鳥」野球部に誘ったという話もある。
さて、その「注文の多い料理店」全文はこれである。
これは、子供に聞かせる童話としては難しいし、子供にとってもそう面白くもないだろう。何より独特のリズム、言い回しがあり、読み易くはない。ともかく大人、子供を問わずどんな文学作品も、作家の哲学、思想、感情、美意識等々の何某かが投影されたり、読者へのメッセージ性が込められたしているものだが、この作品にそれは何かを問えば、どういうことになるだろうか?
前述のように賢治と「自然」との関わりは格別に深い。かの原発のように科学文明が自然を破壊、汚損させるという状況を賢治が見たならば、おそらく身を切られるような思いをしただろう。賢治の「イーハトーヴ」とは自然と人間の生活が調和した理想郷なのである。
そういう視点に立てばこの作品は単純に「自然を軽視、破壊する者(猟も人間の快楽のための自然破壊である)は自然によって復讐される」という見方もできるがそれ程単純ではないような気がする。
もとより筆者は文学の専門ではないし、宮沢賢治にも詳しくはない。文学も絵画と同様、安易な意味づけや象徴性だけを探るような姿勢は控えるべきとの認識はあるが、その上でなお、かの作品には思うところある。
先ず主人公は二人である。これには大きな意味がある。一人だとその人間の個性、資質、属人性等固有の意味を持ってしまうが、最小限でも複数だとそれは集団的な資質、価値観、思考、行動として語られる得るからである。その二人はイギリス紳士然とした身なりでの外観を整えてはいるが、実は、「獲物を撃ったらさぞ気持ちよいだろう」風の快楽趣味と、死んだ犬(実際は死んでないのだが)の損失額を値踏みするような金で換算される価値観に支配された品性卑しい者と設定されている。これは更に、日頃「善意無過失」的市民として、あるいは良き家庭人として、何食わぬ顔して卒なく日常性をこなしているが、その性根に差異を見ることは困難な一般的人間像を推定させる。
賢治の視点はさらにシビアに展開する。彼らには、状況分析、判断力、「批判精神」が全く欠如し、「空腹を満たすこと」に代表される欲望に支配されっ放しの愚鈍な人間なのである。だから、次々に起こる事象を自分の器に合わせ、自分の都合の良い方向で解釈する。この現れが「注文の多い」ということについての真っ逆さまの解釈である。「≪注文が多い≫というこのレストランはきっと流行ってるレストランだ」とか「きっと偉い人が来る名うてのレストランだ」とかの言葉が再三出てくるのも、その手の安易な価値観を示している。
愚鈍な彼らもやがて、「注文」が客側からのものではなく、「レストラン」側の客に対するそれだということに気づく。レストランの正体は彼らを食おうとした「山猫」たる物の怪(もののけ)だった。間一髪のところで彼らは、死んだはずの二頭の白熊のような犬に救われる。この犬も不思議である。いったんは死んだはずなのに生き返った。姿を消した専門の猟師も再び姿を見せる。
犬を死なせ、猟師を逃げさせた峻嶮な山道、おどろおどろしい佇まい、そして山猫たる物の怪、これらはみな一つのものだろう。敢えて言うなら人の世そのもの、国家や社会、政治や経済の諸システムである。そして、この「注文」とは実は「誘導」であった。誘導に乗せられれば結局不利益を被るのは自分自身である。この作品が出来た1928年当時、正に国家は国民を一定方向に誘導していた。そして情報操作、世論誘導、集団的価値・評判体系とこれに応じる「主人公たち」は今に一層盛んである。
二匹の犬や専門の猟師の不滅や蘇りとは、賢治の夢見た「イーハトーヴ」の世界たる自然、芸術や信仰など人間の精神を支えるものに通じる。これらは通常の人間社会、その世俗的エネルギーの中では無力に見えるが、人間がその原存在の如何を問われる時、これは生き返り、これをを以て、支えられ、救われ、生かされるのである。ただ、それにはその精髄に正対し、信じ、相応の努力をしなければならない。
賢治の結論は明らかだ。そうでない者は生涯「顔がクシャクシャの紙クズ」のままなのである。顔がクシャクシャというのは童話だからそういう表現になったのだろうが、「顔つき」が悪いということだろう。「顔立ち」は手がつけられないが、「顔つき」はその人格で決まる。賢治が事の因果を「顔」に据えたのはその「人格」を言いたかったのだろう。
物語で象徴されるのは、精神生活や自然、芸術に真に親しまず、欲に支配され、外観や体裁、モノカネを価値観の指標とする、矮小な自我の尺度で物事を測る、言語の意味を自分の都合の良い方向で解釈する…そういう人間の人格である。「顔がクシャクシャの紙クズ」…随分いる!